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【神保町の生活史 #6】なんでやるかって考えた時に、やっぱり誰でも喜ぶっていうのは、美味しいものを食べさせるっていうのがさ、一番だなと思うけどね。

  • 執筆者の写真: 神保町 ふらっと
    神保町 ふらっと
  • 4月17日
  • 読了時間: 32分

__じゃあ、早速なんですけど、お生まれから。


 はい、生まれからって聞かれたのは初めてだね、僕は昭和22年の8月1日に生まれたのね、で、まあ生活自体は今いらした古書センター、あそこに家があったんで、実際に生まれたのは駿河台に、まあ明治大学近いから分かるけど。 あの浜田病院って、これなかなか名病院で、結構、自慢の種なんで。僕は浜田病院で生まれたよって言って、いや僕も生まれたんですよって。そこでね、言う人が多い、なかなか名門の病院で。産院っていうかね、明治大学のちょうど裏ぐらいにある。知ってる?


__はい、あのへん病院が多いイメージです


 あ、そうそうね。でも今、大きな建物だって、1階から3階までが、産院なってるのかな。婦人科のね。でそこで生まれて、育ったのは、この今の古書センター、神保町2-3で育って。 小学校は、地元の錦華小学校、夏目漱石が出た。で、こないだまで、その錦華小学校の同窓会の会長やってたんですよね。なにしろ同窓生がこの辺り、みんな錦華小学校の人がいっぱいいるので。


 で、兄弟は、弟が三つ違いの弟がいるんだけども。弟は今ね、ずっとハワイにね、どうだろうな。22ぐらいから、ハワイに行って、ハワイの人と結婚したんです。それでもう、大富豪になっちゃったの。ハワイで大成功して。やっぱりハワイっていうところがこうずっと、ここの50年間ぐらいこう伸びて、経済が伸びてったんだね。昔はもう、すごいローカルな町だったけどね、今やもうハワイ行く人もおるし。 それから八つ違いの妹がいて、妹は一番町の牛乳屋にお嫁に行ったんだけど。牛乳屋の一番町、土地が高くなっちゃってさ、それでマンション建てるっていうんで。売っちゃったんだよ、結局ね。牛乳屋はやってんだけども、住まいは世田谷の方に、うちの妹はね。


 で、僕の話に戻ると、今言ったように三人兄弟の一番長男、長男で生まれて、うちの家族っていうのは、その時におじいちゃんおばあちゃんがいて、それからうちのお父さんお母さんがいて、兄弟もみんなあそこの木造の家に一緒に住んでたんだよね。牛詰めでね、住んでて。それで、うちの父親っていうのは、八木書店っていうのをうちの、あ、知ってる?


__あ、存じてます。


 八木書店で、店員をやってたの、うちの父親がね。でうちの母親ってのは一人娘、娘しか生まれなかったの、おじいちゃんおばあちゃんにね。それで、まあ養子をもらうっていうんで、それでうちの父親が、まあその時に、なかなかそのよく働くっていうのは評判だったんです。うちのおじいちゃんおばあちゃんが、八木さんに言って、なんとかうちに養子に来てもらいたいって、お願いをして。それでうちの母親が、娘一人で育ってきたんだけども、あの、結婚してね、それで僕は生まれたの。まあ初めて、だから男の子がいなくって、まあ初めて男の子が生まれたんですね。まあおじいちゃんおばあちゃんが、もうすごい可愛がられてね、育ったっていうのが、子供の頃の思い出だね。それで、小学校六年で、錦華小学校を卒業して、立教中学っていう、立教大学行こうと思ったんですけど。立教中学を受けて、で、うまく入れてね。立教中学・立教高校と、で、立教大学まで行って、大学二年の時にうちの、今そこにいたうちの家内女房と、こう出会って、結婚、大学の二年の時に結婚したんです。それで立教大学中退しちゃったんです、二年で。


 それで、イギリスに行ったんですよ、そのイギリスに。まあ遊び半分みたいな感じで。結果的にイギリスで二年、ウィンブルドンっていうところに住んでて。


__はい。


 その間に今ちょっと出かけてるけども、うちの五代目の剛一っていうのが生まれたの。 それは昭和46年に結婚して、イギリスにすぐに行って。47年に、うちの息子がイギリスで生まれたんです。この話はあんまり、他のインタビューじゃ話さない。


__はい、びっくりしました(笑)


 まあびっくりするほどもんじゃないけど(笑)今時はね、そういうことはあるだろうと思います。今から50年前だからな。もうその話ね。だからその頃は結構、本当に1ドルが360円だったので。それで、1ポンドが英国の1ポンドっていうのが、千百円ぐらいしたんだよ。そういう時代だったんだよね。日本の貨幣価値が低かったんだよね。今はね。ただ円安って言いながらも、ね、160円ぐらいだけどね。その当時は360円。まあそこで、ウィンブルドンで、まあ英語の学校に行っててね。で、その間、うちの女房は、日本クラブっていう日本郵船なんかが出資してるそういう日本人が利用する、なんていうのかな、お料理屋さんみたいなとこでアルバイトしてて。二年近く、一年十ヶ月、ウィンブルドンで暮らして、それで、まあ日本に帰ってきたんです。まあとりあえず生まれから、ざっとそのあたりの、周辺のところをね。


__立教行かれて、立教中学は場所は?


 場所はね、立教中学は池袋だった。でね、立教高校がね、今ちょっと色々変わったみたいだけども、その当時は立教高校は志木にあったんだよ、埼玉県の。だから、中学はここからその頃、丸ノ内線がもうあったんだけどね、地下鉄の。だから淡路町から丸ノ内に乗って池袋行って、中学はね。高校になってからは、池袋から東上線で志木まで。まあ、男ばっかじゃんね立教中学、高校はね。それで、プロテスタントのミッションスクールです。でも、そこも良かったなと思うんだよね。


__中学で、ずっと神保町とかこの地域っていうわけではなかったんですね?


 学校はね。はい。学校はだから、まあ池袋が中心だな。


__中学時代の思い出とかありますか?


 中学時代の思い出?まあありすぎるけどね、そう、まあボーイスカウトかな、中学の時に入ったんですよ。その時に、なんていうかな、思い出っていうか、まあこう、あんまりああいうテントの中で寝たりとかね、こう生活してしたことがなかったんでさ。夜になって、ホームシックになってさ。1人でさ、なんか帰りたいなと思って、もう泣きべそをかいて寝た思い出があるね。キャンプファイヤーの時にあの、「遠き山に日は落ちて」っていう曲知ってる?


__ああ、とおきやまに~っていう


​ そうそうそう、あれをこうキャンプファイヤーの最後の時に歌うんだよね。そしたら俺がしくしく泣き出したら、みんな新入生のさ、ボーイスカウトの入った子がさ、みんな泣き出したっていうね(笑)それが一番覚えてるよね。

 まあ、あとはそのミッションスクールなんで、1週間に一度、月曜日の朝に1時間だけ、牧師さんが話をするんですね。まあその話が、なかなか、ね。中学、まあ高校時代もそうだったんだけども、なかなかいい話っていうか。すごく僕の人生観にね、影響を与えたね。

 よく話するのが、僕はその思い出で話するのが、ひとみ先生っていう先生がいてね、物理の先生なんですよ。もう割と怖い先生なんだけど。その先生が、まあそれは高校の時の話なんだけどね。授業始まる時に5月ぐらいだったんだけれども、お天気が良くてね。それで、志木っていうとこはもうすごい、緑が多い、学校はね、緑が多いキャンパスなんだよね。それで、授業始まる時に、じーっとそのひとみ先生が、外見てんだよね。それでみんなもさ、なんだろうと思って、みんな外見たら、ひとみ先生が「こういう素晴らしい日には、神の恵みを感じますね」って。授業が始まる時と言ったのね。


__はい。


 その時の言葉がもう本当に身に染みたっていうかね、ああ、神様っていうのは、こういう存在なんだっていうね、もう。一緒にみんながね、感じたっていうか、そういう自然の中に、やっぱり神様のありがたみっていうのはね、あるんだろうなと思って。その言葉がもう、物理の先生だったんだけどね。みんなね、立教の先生はね、クリスチャンなんだよね、先生がね。だからそういう授業の時にそうやって、ちょこっと言う話っていうのがすごく心にしみたっていうかね。


__すごいさりげないことが。


 そう、さりげない。やっぱりそれ以来ね、今僕も、神田明神の宮司さんと付き合いがあるんだけど。神田明神の宮司さんなんかも、やっぱり日本神道、知ってると思うけども、日本の神社と日本神道っていう考え方です。やっぱり神様は、自然の中にいるっていうんでね。だから、神の恵みっていうのは、自然の恵みが神の恵みだっていう思想なんだよね。だから、まあ、キリスト教よりも自然と神様がこう繋がってるっていう感じだな、日本神道のはね。だから、木だとかさ、石なんかにも、そういう神が宿るっていうね。だから、木に、古い木々、何百年も経ってる樹齢の木にはさ、しめ縄をかけたりするでしょ。神様は、そういう自然の中にいるっていう。日本神道とかね。まあそれはだから、なかなか非常にこう、道徳的にもね、いい考えなんじゃないかなと思うけどね。まあ自然を大切にするっていうね、日本神道ね、キリスト教もそうなんだけどね。自然の恵みが神の恵みだっていう。だからその考え方っていうのはやっぱり、立教の中学高校と言っている間にね、すごく自分の考えの基本になっております。だいぶ余計な話をして(笑)


__いやいやいや。こういうのが、お聞きしたいので。


 あとなんだろうね。今、古書センターっていうね、建物があれ築48年に今年になるの。昭和53年に建てたんだけど、その時にビルは、うちと、向こうがもうちょっと先に北沢書店ってあるけど、北沢さんの支店があったんだよ、うちの隣にね。


__そうなんですね。


 うん。で、共同で建てようって提案をしてね、その時に僕は、28、9歳ぐらいだったんだけどさ。まあ中止になって僕が建てて。今考えると。よく28、9ぐらいで僕がリードしてって、色々建築会社が選んだりしてね。それから、こういうビルを建てようって、今からもう50年前の話なんで、その時に、建築会社さんは一階は、北沢さんと高山さん。うち25坪ぐらいしかないんだけど、北沢さんも25坪でしょ。半分半分にお店を作って、あと上はオフィスビルにしましょうって提案したの。だけどもその時に、それじゃさ、地域に何も貢献しないじゃん?だから僕はこれからこの町はどうなっていくかって考えた時にやっぱり。古本屋がね、もっと多くなって、もっと地方からもね、神田神保町に出店したいっていう本屋がいるだろうから、そういう人たちを呼び寄せて、そして、古書センターっていう名前にして、上に古本屋を入れようっていう提案をしたのね。


__はい。


 まあそれが北沢さんの、その時はお父さんだったんですね、龍太郎さんという人。僕は28、龍太郎さんは50ぐらいだったかな。で、いや、肇くんの考え方は面白いって言って、賛成してくれてね。


__はい。


 それで古書センターっていう名前にして、その時に大阪からも来たり。三鷹からも来たりして、結構神保町じゃない人がテナントで入って。今も神保町入ってるけどね。だから、まあそういう。なんか街ビルを建てるっていうことは、やっぱり町の発展にね、こう繋がっていくようなものを建てなくちゃだめだなと思って、そういう提案をしたのと。それから今、ボンディってさ、カレー屋さんが入ってて。カレー屋は、実は僕が呼び寄せたんです。ウィンブルドンでね、ちょうど英国に二年行ってる間に、僕は結構料理が好きなんだけどさ。今でも自分で料理やるんだけどね。イギリスでも、料理を自分でやってたのね。それで、そのイギリスはね、その当時ね、今ちょっと違ってるらしいんだけども、ロンドンはカレー屋さんが多いんだよね。あんまり今どき話題にならないけどさ、イギリスっていうのは、インドを植民してた時代があって、もう僕が行ってる頃から移民っていう形じゃなくて、インド人は英国のパスポートを自動的にもらえたの。で、英国国籍になれた。だからまあ、インドは今も貧しいとこあるけどさ、その当時もっと貧しかったんで、インド人がいっぱいロンドンに来て働いてたわけなんですよ。だからその、インドのカレーを、英国風にアレンジしたインドカレーのお店が、そういうお店がたくさんあったんだよ。ウィンブルドンにもね、3、4軒あった。ピカデリーサーカスなんかも、ちょっと綺麗な高級なインドのカレー屋さんがあっただよ。


__えええ。


 で、僕もね、食べ物も好きだったし、自分で料理するのも好きだったんで。そう、そのロンドンのカレー屋さんをね、もう軒並み食べて歩いた。それでね、これは美味しいなと思ったんだよね。インド、英国風のインドカレーがね。でね、ちょうどね、その時にね、うちの店からね。色んな日本の本を送ってきた中にね、伊丹十三の書いたね、『女たちよ』が本があるだけどさ、割と名著なんだけど、それね。伊丹十三って知ってる?


__あ、あれですよね。映画監督?


 そうそう、映画監督、映画俳優。まあちょっと自殺しちゃったんだけどね。なかなか面白いキャラクターの人でね。その人がこう、ロンドンのことを書いてる中にやっぱりね、ロンドンのカレーは美味しいって書いてある。それで作り方も書いてあって、で、それを真似てロンドンでよく作って、僕の英語学校の人の生徒を呼んで食べさせたら、高山さんのカレーは美味しいって言ってね、それでそういう盛り上がった中で、日本に帰ってきたの。それで日本に帰ってきてからも、友達呼んじゃ、そのカレー作ってたのね。そしたら、まあ、いや、僕のやり方は、ロンドンのカレーなんだよって言ってたら、いやこれはね、商売になるよってみんなが言うんですよ。日本にはないって言うんだよ、こういうカレーは。で、確かにね、あの頃のカレーっていうのはね、もううちの中で食べてたのは、もう豚小間みたいなのを入れて、ルーはもうS&Bのなんとかルーっていうのを入れると、あっという間にカレーができるようなものだったんだけども。ロンドンで作ってたカレーが、もう本当に何時間も肉を煮込んだりしてね。まあ高級なカレーだったからね。それで、いやこういうカレーどっかにないかなって探したら、高島平でインディラっていうお店があってね。今もあるんだけどね。そこで働いてる、村田さんっていう方がね、その村田さんもフランスで、フランス料理を本当は勉強しようと思っていたんだけども、やっぱりカレーに取りつかれて(笑)


 それでフランス風のカレーを作ってたそうで、インディラでね。いや、これならいけるなと思って。で、ビルを建ってる時に、またそれは僕が提案して、カレーのお店をぜひ出したいと。絶対これみんなにヒットするよって言って。それで、昭和53年の2月に古書センターオープンするんだけども。その時のスタートにそのボンディっていう名前でその村田さんがインディラを退社して、それでこっちでボンディを立ち上げたわけ。


__そうだったんですね!


 で、その時にはさ、この辺りカレー屋さんっていうのはさ、そんなになくて。でね、共栄堂っていう、今でもある。


__あ、スマトラカレーの。


 そうそうそう。共栄堂は昔はね、洋食屋さんだったんだよね。カレー屋さんじゃなかった。で、ちょうどね52年か53年にね、共栄堂を含む何軒かね、火事でみんな燃えちゃったんだよ。それで共栄堂は、本当は路面のお店だったんだけども、地下に入ってカレーだけやるようにした、カレーがまあ良かったんだろうね。そこと、それから、カレーの南海って今もあるけど、カレーの南海と、二軒ぐらいしかなかったんですかね。


 それでボンディをやって、ボンディ1年ぐらいに古書センターで、昭和53年の2月にオープンして、54年ぐらいになったら、ボンディが大ヒットしたんだよね。それでもう、ボンディのカレーは美味しいっていう評判がたって、もう並ぶようになってきた、その頃から。それでだよ、他のカレーをウォッチングしてる人が、神保町はカレーが当たりそうだと思って、その後にマンダラっていうね、さくら通りにあるカレー屋さんがオープンしたの。マンダラも大ヒットだったの。そしたらば、もうわっと来たの、この辺りに。それで、この話はさ、なんかChatGPTで「高山肇」って調べると、この話が出るらしいんだけどさ。


__えええ


 神保町のカレーのオリジンは、高山肇が広めたっていうのを言うらしいんだけど。まあ結構いろんなところでこの話してるからさ。うちの娘とさ、その話をした(笑)だけど俺もこの話色んなところにしてるけど、誰も異論唱えるやつがいないからね。


__間違いないです。


 うん、俺の話は合ってんだろうと思ってね、間違いないだろうと(笑)実際にそのボンディがオープンして、そっから10年ぐらいで、何百、今400件って言われてんだよ。神保町を中心に神田のカレー屋さんのそんなにある店数が。それで、今から20年ぐらい前に、カレーグランプリっていうのが始まっちゃって。もうなにしろその、神保町はカレーの街だっていう。古本屋の数よりもカレーのカレー屋の方が多くなっちゃったんだと。だからそれが、僕はもうそれは確信持って言えるんだけども、ボンディがオープンしてからだね、それはね。ポンディがオープンして2、3年後ぐらいに、マンダラがオープンして。そっからばーっと増えたんだ。


__そういう広まり方なんですね。


 だから、その古本屋もそうなんだけども、古本屋を呼び寄せたかったからそうなんだけども、一軒二軒でさ、街って求心力はないんだよね。だから、やっぱりまとまると、街の力になるんですよね。だから、まあこの辺りでは、スポーツ屋さんなんていうのもさ、昔あんなスポーツ屋さんたくさんなかったんだけど、やっぱりスポーツ屋さんが増えた。スキーがブームもあって、それで、スキーを取り扱うところがわーっと小川町あたりが増えたんだよね。もちろん古本屋もそうだし、スキー屋もそうだし。それから御茶ノ水の楽器屋さんね。あのあたりも、やっぱり、楽器屋一軒じゃね、お客さん来ないんだけど、たぶん20軒ぐらいあるんだと思うけどさ、楽器屋はね。だからそうやって、やっぱり街ってこう、まとまるとその街の力になるんだね。だから、そこは、カレー屋さんもそうだったんだろうと思うんだよね。僕も古書センターを建てる時に、もうその当時80軒ぐらいあったんだけどさ、古書店もね。今、だいたい130件ぐらいある。だから、やっぱりまとまるという力はね、大きいなと思うので。 まあ大体ここのところはよく話してる、くだりですね(笑)カレーのね、カレーの街になったっていうのはね。


__そうですよね。大学のところとかもちょっと聞きたい。


 大学?大学はね、いやだから、もうその、これは僕は言う話じゃないかもしれないけども、明治大学もそうだし、東大もそうだし、東大は今のね、学士会館のとこにあってスタートしたんだ。で、東大が一番最初にこの街でスタートしてるかな。で、共立も専修大学も、日大も、それから、千代田区でこう集めてくくりにしているのが十一大学って言われて。多分、その明治のだいたい八年ぐらいかな、大学が増えてきたんだよね。それは、時の明治政府の考え方だったな。それはもう、本を読むと出てくるんでね。江戸時代に、湯島のところに昌平坂学問所っていうのがあってね、その江戸時代も、その文部省みたいな機能を果たしてたんだよね。今の湯島の、湯島の聖堂っていうところがあるんだけどさ。湯島の聖堂のとこで、いろいろその住宅だとかそういうものを、お侍さんに教えてた場所があって、いろいろその教育の一番中心は、御茶ノ水だったんですよね。御茶ノ水、湯島あたりだった。それを明治になって、それを明治政府も引き継いでやってこうっていうことにして、そのまま江戸時代に、大名屋敷がこうこの辺りであったの、たくさん。その大名が、明治になって、国元にみんな帰ったんだね。江戸のお屋敷だったのが、江戸時代はね、それがもう、明治になってそういう風にいる必要がないんで、みんな国元へ帰って行っちゃって、その後に、大きな敷地が残ってたんだよね。で、それを、そこに、明治政府は高等教育の拠点を作ろうっていうんで。明治政府が東大とか、一橋大学とか作ってたんだけど、その後私立もそれに習ってできて、だいたい明治の半ばぐらいにはもう、今と同じように十いくつぐらいの大学ができてきた。それに伴って、やっぱり学校の先生と、それから生徒さん。もう本を読むんで、古本屋ができてきたと。だから大学のその成り立ちと、古本屋の成り立ちっていうのはほぼ一緒になってきたんで。だから、まあ僕もいろんなとこで大学の皆さんと話す時は、もう大学とこう書店っていうのかな、密接な関係があるんで、そのもっとこの本屋に来てよって言ってんだけどね(笑)先生が横から、今の生徒はみんな終わるとすぐに帰っちゃうんですよ、交通が便利すぎたのかもしれないなんて言うけどね。昔は本当に学生街っていう、神保町は学生街っていう風にレッテル貼られてたぐらいの学生がいたんだけどね。今、逆にだから、ここ古書店の主要なお客さんっていうのは、学生よりも、今直近では本当に外国の人とかね、それから、自分で趣味で、ただ漫画とかそういうのはさ、あんまり、なんちゅうんかな、勉強に関係ないんだよな。で、自分の趣味で、グラビアアイドルのヴィンテージのものとかさ(笑)そういうものをさ、探したりとかさ。錦絵なんかもね、やっぱり自分の好きで買うっていう人が増えてね、いわゆるコレクターズアイテムになってきたんだよね。この50年ぐらいかな。だから明治からの時は、みんな学校の勉強のために買ってて、だから学生さんが多かった。それから、教える先生が、買いに来たっていうそういう様子だったんで、どっちかっていうと、その社会科学系の本屋さんが多かったんだよね。法律とか経済とかね、そういう学校で教えるようなものの本っていうのが、こう主流だったんだね。だから岩波書店なんかも、出版社としてはね、岩波さんなんかの本は、よく売れてたんだけども、今岩波さんの本が売れないんだよな。で、要するに堅い本が売れなくなっちゃった。経済とかそういうものはね。で今、どっちかっていうと、趣味的なものが売れるようになって。さらに、レアな本は、高く値段をつくるような、まあビジネスとしても、そういう方がビジネスになるね。教科書は、うちの祖父のおじいちゃんの代は、教科書を売ってたの。それで、だから、その高山本店のちょっと歴史で言うと、うちの初代っていうのは、高山清次郎っていうの。福岡の久留米で生まれて、明治八年ってことになってる、創業はね。それまでうちの高山清次郎っていうのは、お侍さんに江戸時代に弓をね、売ってた。弓を売って、それから弓を修理したりしてたね。そういう生業をしてたんだけども、明治になって、弓が売れなくなっちゃったみたいなのね。それで、お侍さんがその当時から、本をやっぱり読んでたんで、学歴が高かったんだよね、お侍さんね。それで、お侍さんから、本を売ったり買ったり、弓の代わりにね、引き出してて、それが明治八年なんだ。それで、うちの初代が、初代の奥さんがつ子(ツネ)っていう奥さんでね。26歳で亡くなっちゃったんだよね。それで、まあなんかこう吹っ切れちゃったというか、もう故郷を捨てて神保町に越してきた。それが明治の26年、27年ぐらいに神保町に出てきた。その高山清次郎っていう初代と、それから、二代目の高山清太郎と、で高山清太郎の弟の安太郎っていうのを連れて、男三人で出てくるんですよね。次男の安太郎っていうのは、古賀書店って、今辞めちゃったんだけどさ、音楽専門の、楽譜なんか専門のお店を創業するの。その高山の弟がね、二代目の弟がね。で、初代はうちの初代の高山清次郎と高山清太郎が、高山本店を作って、特に二代目の高山清太郎は教科書で、まあ割と儲けたんだよね。それはだから学生さん向けに売ってた。まあだから大学との繋がりが大きかったんですね、当時はね。で、それの商売もだんだん、その教科書だけじゃ商売にならなくなって、うちの父親の高山 富三男の代だって、今の大体その武道とか、今、それから謡をね、謡って分かる? 能とか。


__はい。


 それから日本音楽、三味線の本とか、いわゆる日本音楽、邦楽を主に取り扱うようになったのが、父親の高山富三男の代なんです。うちの父親は作家の先生と仲良くしてね、それで、まああんまり古い作家は知らないかもしれないけど、檀一雄って昔いたんだけど、檀さんが、自分のことをすごく気に入ってくれて、檀さんが作家仲間に、「高山さん行くと、なんでも揃えてくれるよ」って言ってくれて、それで、檀さんが紹介してくれたのが、柴田錬三郎とか、それから大岡昇平とか、それから瀬戸内晴美とか、それから一番大きかったのは、司馬遼太郎さん。司馬遼太郎さんはもう本当に、今司馬さんの記念館あるんだけど、記念館に入ってる本のほとんどはうちが納めた。それは結構有名な話でね、いや僕も、司馬さんのお家まで、届け物をしたこともあるけどね。司馬さんの『街道をゆく』の途中に、うちの店のことが出てくるね。それで、僕の代は、ちょっと僕は料理が好きなので、料理の方をそれに加えて、やりだしていうとこかな。ちょっと店の歴史はいいんですけど。瀬戸内さんなんかも、僕はお届け物したんで。亡くなる前は、瀬戸内寂聴さんでしたけどね。で、最初スタートした時は、瀬戸内晴美って言ってたんです。でどっちかっていうと、そういう男と女の話だったね。まその瀬戸内さんはその話よくするけどね、テレビで。まあでも大体、瀬戸内さんも行ったでしょ、それから、柴田錬三郎のお家にも行ったし、大岡昇平さんのお家にも届けに行ったしね。まあ頃が一番本が売れたな、売れた時代なんだよな。


__年代だとどれぐらい?


 だから昭和の30年ぐらい、昭和30年ぐらいっていうのは、一番本が売れた時代だな。今も売れないわけじゃないけどね。売れないわけじゃないけど、やっぱり、昔はそういう、百科事典とかさ、皆さんのお家にもあるかもしれないですね。百科事典とか、日本文学全集とかさ、日本美術全集とかさ、そういうものをなんていうか、ブームっていうか(笑)みんな揃って買ってくれたんだよ。で、そういう人が今ね、逆に僕ぐらいの年代だけになっちゃってる。みんなもういらなくなっちゃってさ、もうみんな売りたいって言ってるからさ、もう、そういうのが売れないんだけどさ、お客さんが売りたいって言うんだよね。百科事典なんかもう全く、全く売れないね。だって、今こういう、それこそスマートフォンでさ、調べられるじゃん、なんでも。もう極端な話、マナーとかさ、病気のこともさ、こういう症状があるってやると出るからさ。昔は家庭の医学とかさ、そういうのがあったんだよ、本がね。で、こういう時には、こういう病気が疑われるとかっていうと、みんなそういうのを見て、病院行ったりしたんだけど、まあそういう家庭の医学みたいなものも売れないし、何しろ、調べるっていう、調べるようなものはもう全部これ(スマートフォン)で調べられるよね。百科事典、平凡社 世界大百科事典なんかさ、よく売れたんだけどね、本当に。すごいボリュームがあるんだよ。もう全35巻ぐらいで。


__へええ


 あ、知らないか。まあしょうがないんだよね、ブリタニカとかさ、聞いたことある?ブリタニカっていうのがね、なんかもう、日本語版ブリタニカに発行する、そういう本も売れた時代があったんだね。だからそういう、そういうものはもうみんな売れなくなっちゃったと。で、何しろ、何かを調べるっていう機能を本に求める人はいなくなっちゃったね。みんなこう、スマートフォンでね、ネットで調べるように。だから、さっき言ったように、本をその所有するね、自分が好きで、その本をそばに置いときたいっていうような本は、その代わり売れるようになったし、その当時、例えば千円で売ってたようなものが、20万円ぐらいになるよ。だから、映画のパンフレットなんていうのがね、売れる時代が来るとは思わなかったからね。映画のパンフレットなんていうのもさ、今はそんな高くないかもしれないけど、何十万円もする時代があった。やっぱり、当時出た時に、ちょっとしか出なくて、それで、今になってみたら、欲しいなっていうような本は売れるようになったし、ビジネスとしてね、対象になるようになってきたね。だからまあ昨日も、そういう美術書なんか売りに来た人がいて、「これね、あの、いい本なんですけど」って。いやいい本なんですけども、その当時に売れすぎちゃったんだよね。


__はい。


 売れすぎちゃって、今はもう、見る人がいなくなっちゃった。何しろ、大型の本が、売れなくなってきちゃったね、ちっちゃい文庫本みたいなもので、みんな読み物を読んじゃうっていうことをね、単行本って言って、一冊一冊というもので出てくるようなものが売れなくて、文庫本で済ましちゃう、文学書など。


__そうですね。


 やっぱりそうやって時代の中で色んなものが変わっていくんだけど、その時代に合わせてね、やっぱり商売していかないとな、それは続かなくなっちゃうから。


__高山さん、本はずっと読んで?


 ああ、だから今もだからさ、文学書とかはそういうのは読まないけどさ、ノウハウものみたいなものね。料理なんかはね、料理本は呼ぶけどね。


__学生時代とかも、本あんまり読まない?


 そうですね、意外に。まあそれ聞かれるんだけど、よく聞かれるとさ、「いやあんまり本を読まないんですよ」と(笑)うん。僕の逆に趣味っていうと、料理と、それから音楽だね、音楽聞くことね、自分で演奏はしないけどさ。だから、今だいぶ処分したんだけど、オーディオに凝っててね。そういうその真空管式のアンプとかさ、まああんまり関係ないか。


__いや、全然聞きたいです。


 そうそう。料理がやっぱり一番面白いね。料理がね。だから料理に関係した本、もう食べ物に関係した本は、入ってくると、楽しみだなと読んでるね。考えて。


__料理はウィンブルドンで料理するようになったんでしたっけ?


 いや料理はね、うちのおじいちゃんがやっぱり好きだったんだよね。それでうちのおじいちゃんが、やっぱり台所で、僕が子供の頃、こうおじいちゃんが料理してるのを見ててね。


__おじいちゃんなんですね。


 そう。それで、うちでそれ見ながら、自分もやってみたいなと思って、小学校3年頃から、まあ、プリンとかね、プリンなんかは小学校3年の頃作り出した。作り出したっていうのは、大げさだけどさ、作ってみたいなと思って、それで、小学校3、4年ぐらいから、いろんな料理作るようになったね。やっぱりあの。ちょっと生意気なことを言えばその、人に喜んでもらうっていうことが、僕は好きなんだよね。料理っていうのはさ、やっぱり作って、「美味しい」ってね、まあうちの孫なんかで食べさせてるのが今多いけどね。やっぱり、分かりやすいじゃん、料理ってね、人を喜ばすとかね。やっぱり美味しいもん作って、食べさせて美味しいって思われるっていうのがね、やっぱり、生きがいだなって思うよね。やっぱりね、人間ってこう、なんか自分の存在意義っていうのをさ、ね、普通の人に、こう褒めてもらうっていうのがさ、大事なことだよね。褒めた上で、だから、それをやっぱり、なんでやるかって考えた時に、やっぱり誰でも喜ぶっていうのは、美味しいものを食べさせるっていうのがさ、一番だなと思うけどね。うん。あとどどんな話をしたら。あとそうだ、忘れてたのが、僕の人生の中で区議会議員をね、18年間やってきたんだよ。で、そこは言わなかったけども、39歳の時に、まあ結果的に言うと、そういう政治のことっていうのはさ、まあそれもだから僕の、こう人を喜ばせたいっていうことをこう関係してくるのかもしれないけどね。やっぱりこの神保町で生まれて、神保町で育って、やっぱり神保町を良くしたいなっていう気持ちがいつもあってね。色んなイベントやったりして、大勢の人が来て、みんな賑わったりすることが、まあ子供の頃から好きだったんだね。それで、平成9年にさ、僕が応援してる区議会議員の先生がさ、もう辞めちゃったんだよね、病気でね。病気で辞めちゃったんで、その時に、支部長っていうのが、自民党の支部長っていうのが、与謝野馨っていうさ、まあ知らないかもしれないけども、結構有名な政治家だった。与謝野 馨っていうのは与謝野鉄幹の孫なんだけどさ。与謝野家ってなかなか有名、あの知らない?


__歌人とかの


 そうそう。そのだから、明治大学の裏のところに、文化学院っていうさ、学校があったんだけどさ、今辞めちゃったんだよね。もったいないことしたけど。文化学院を作ったのも、与謝野晶子と与謝野鉄幹が作って。そう、歌人なんだよ、与謝野晶子はね。で、その孫で、与謝野馨というのは、結構有名な政治家だったんですね。


__あの、財務大臣とかやられてた?


 そうそうそうそう、財務大臣、文部大臣もあるある。で、与謝野さんが、千代田支部の支部長だったんで。それで、自民党の一人地域のこの神保町の区議会議員が辞めちゃうんで、それで平成九年に、僕のとこに来て。「高山君、なんとか立候補してくれ」って言われて、で、その時に、正直辞めちゃったんで、補欠選挙があったんですよね。補欠選挙っていうのは、もう千代田区全部回って、全部から票を取らなくちゃいけない、なかなか大変な選挙なんだけど。まあそれに立候補して、当選して、そっからスタートして18年間、区議会の議長もやったし、いろんな委員会の委員長もやって。それで、今から11年前に辞めた、リタイアした、18年間。それもやっぱり地域、区議会議員っていうのはさ、千代田区のことをやる。千代田区議会議員っていうのは、千代田区のことをね。やっぱり千代田区っていうのは、なかなか特別な区だと思うけどね。これだけ本当に学校が多いし。それから、皇居もあるしね。それから千代田区には三権があるから、全部、ね。あの司法・行政・立法と国会があるしね、三権が全部千代田区に集まってることもあるし、それに、天皇陛下がいらっしゃるっていうこともあるし、あの。本当になかなか他にはない地域だと思うよね。あとね、ちょっと色んなことやってきたんだけど、九年間、お惣菜屋をやってた。


__え、そうなんですか?


 その話もあんまりしないから、他に載ってないけどね、あの、そこの神保町一丁目で、再開発になって、今あのビジネス棟と、それから大きなマンションで、パークタワーっていうマンションがある。すぐそこにあるんですよ。そこのところは昔は木造のお家がたくさん建ってた場所だったんだけども、今から30年ぐらい前に、そこを再開発しようって言って。結果的には三井不動産が、再開発したんだけど、その時に僕の同級生が、そこの中にいてね。どうしようかな、再開発の話変わるんだけどね、僕はまあ自分のとこで建てるよりも、再開発の話にのった方がね、それはいいんじゃないのって。まあ結果的には良かっただけどね。で、ただ時限的に、もう10年ぐらいの間に、全部取り壊すんで、あんまり変な人を行かしちゃうと、なかなかその再開発に乗れなくなっちゃうっていうので。それで10年間ぐらい、なんかやらないかっていう話があって、僕は料理好きだったんで、ちょっと洋風なね、お惣菜屋をやりたいなと思って。それで、九年間、結果的には九年間になったんで、そこで僕は、お弁当屋さんっていうか、お惣菜屋さん。


__へえ。え、高山さんが作るんですか?


 僕が作る。だから、子供の頃やっただけでもね。絶対レストランやりたいなと思って。だから、まあそれを一旦、一度試してみたいなと思ったんで。それで、まあ結構流行ったんですよね。結構繁盛した。結構繁盛したけど、結構大変だった、朝5時ぐらいに必ず起きて。


__楽しいは楽しかった?


 楽しくはやってきたんだよね。流行ったんだけど、あんまり儲からなかった。


__すごい。


 で、その九年間やった最後の年に、今言った話が戻るんだけども。区議会議員をやらないかって。ちょうどその再開発が進んで、もう今年いっぱいで、もうやめてくださいって言ってきたところだったんで。ちょうどそのタイミングがね、区議会議員に出るっていう、タイミングは良かった。


__すごいタイミングですね。


 で、うちでもさ、うちの店でもさ、あのまあそれも、ねえ、本当は古本屋で一生懸命やらなくちゃいけないのに、その5時から起きてさ、料理なんか作って。でも早くもう帰ってきてくれってね、言われてた時だったんで(笑)まあそれをやめて、区議会を、区議会議員をやりながら、古本屋をやってきた。まあそこがちょうどまた変わるところだったね。ちょっと時期的にね。


__はい。


 もうだいたい。話すことは全部話したけど。まとまるかね、あとなんか抜けてることが。で、今、うちの剛一って息子はね。古本屋の五代目でね。で、娘は、もう帰っているかもしれないけども、うちの店も手伝いながら、娘が結婚した時にね、そのちょっとその時の話をすると。そうですね、結婚するって言って相手が、なんていうの、輸入雑貨みたいなね、仕事をしてたんだよ、それで、なかなかいい男なんだけどさ。いい青年なんです。あのだけど、広島の支店に行くっていうんだよね。それで結婚して、それ俺も寂しいなと思ったんだよね、娘がさ、もう全然違うとこ行っちゃうからさ。それで、まあ齋藤君、齋藤圭介っていうからさ、「齋藤君なんか、他にやりたいことはないのかい」言ったらさ、「いつかカレー屋をやりたい」って、それでさ、カレー屋をやりたいって言うんだったらまあ、うちのポンディがね、流行ってるから。「ボンディに何年間か修行して、それでフランチャイズでお店をやったらどう?」って言ったの。そしたら、「じゃあそれでやらせてください」って言って、それでボンディの社長にうちの娘婿なんですけど、ポンディのカレー屋をやらしたいんで、ちょっと修行でお店に入らせてくれと言って、それで二年、うちの神保町の本店で、修行っていうかカレー作って、それで小川町でオープンしたのね。それで、大ヒットでさ。お客さんがたくさんついて、今去年から秋葉原にも出して、今うちの息子のところで、娘婿のね、秋葉原と小川町の2軒、繁盛してる、おかげさまでね。まあ、僕もカレー作り好きになって、別でよくカレー作るけど、本当言うと俺のカレーの方が美味しいけどね(笑)


__こっそり出したらそっちの方が、みたいな(笑)


 でもね、やっぱり大変なんだよね。料理するっていうのはね。だから今、まあうちの息子のっていうか、ボンディで良かったなと思ってるのは、今ね、人がいないんだよね。ランチョンっていうお店があるでしょ。ランチョンなんかもさ、今お昼はたまにやってないのかな?料理作る人が、いなくなってきちゃった。だから、やっぱりね、この働き方改革でさ、みんな週に3日休むとかさ、そういう時代になっちゃってるからさ。もう人手がさ。料理っていうのはやっぱり、誰でもできできないじゃない?だから、シェフが、この人のルールだったらっていうシェフがいて、月曜日から仮に土曜日までね、昼夜作るっていったらさ、やっぱり少なくとも同じことをできる人が二人いないとさ、できないよね、食べ物はね。だから、その点フランチャイズでやってるから、カレーのルーっていうのはもう、セントラルキッチンで作ってくれる。だから、極端な話、誰かアルバイトでも作ろうと思えば作れるようになって、同じ味が保てるような。それをやっぱり、全く一から、材料から作るっていうことができるっていうと、今言ったように、二人ぐらい、もうね、同じことできるシェフが二人いないと365日とは言えないけども、週せめて、日曜日は休み、じゃあ月曜日から土曜日までね、お店をやっていく、昼も夜もって言ったらね、場合によっては、三人ぐらいいないとな。昼やるっていうのはさ、朝の9時ぐらいから用意しないと間に合わないからね、そんなことね。それで夜のやっぱり10時ぐらいまで、ね、ラストオーダーが9時とかさ。足りなくなっちゃうでしょ、そうすると。やっぱり12時間やるってわけいかないもんな。途中休憩で休むって言っても、やっぱりその間、どっか行っちゃうわけにはいかないしさ、寝てるわけいかないしな。なかなかその食べ物のビジネスっていうのは大変だよね。だから、本当に日本の食べ物が、まあ確かに美味しいよな。世界中の中でさ、ポピュラーなもの食べてもな。それはもう、トトップクラスになるとさ、どうかっていうのはあるけどさ。でも、日本は、大体どこ行っても美味しいものが食べられるしさ。やっぱり大したものだと、やっぱりその日本の食べ物の文化を維持していくっていうのはね、やっぱり、大変だなと思うね。でも、ビジネスチャンスであることは間違いないね。あれだけ外国人がたくさん来て、日本の食べ物は美味しいって言っているからね。まだまだ伸びしろがあるだろうなと思うけどね、商売もね。


__ボンディも外国人来てます?


 来てる来てる。もう並んでる。


__あそこに外国人も並んでるんです?


 そうなんです。だから、昔っていうか。アジア系の人だと、ちょっと見分けがつかないけどさ、白人の人が並んでるからさ、そう、今欧州の、特にここ一年ぐらいは、アメリカ人よりも、ヨーロッパの人が目立つ。


__分かります、すごい実感します。


 だから英語を話してるけども、ネイティブじゃないなっていう人がいっぱいいるからね。で、仲間同士は、こうフランス語しゃべったり、スペイン語しゃべったりしてるからさ。どっちかっていうと、欧州の人がね、増えてきたね。そういう人たちがだって、本当に日本の、カレーだとかね、まあ今、そういうのテレビ番組でやってるけども。納豆とかな、ああいうさ、日本人も好き嫌いがあるような、食べ物をな。まあお寿司なんかも昔は、ああいう生魚なんか食べないと思ったらさ、一番好きなものって言ったら、寿司って言ってんだもんね。ねえ、外国人がさ。それで、まあ去年の米不足なのかな、日本人の一億3,000万人ぐらいがこれぐらい食べるよって言ってたら、外国人が4,000万人くらい来ちゃってだからさ(笑)その人たちが食べてんだからさ、やっぱりお米が足りなくなっちゃってね(笑)


__そうですね(笑)



聞き手  :古屋璃久、中野健太郎

書き起こし:古屋璃久

語り手  :高山肇

 
 
 

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