top of page

【神保町の生活史 #7】大学2年生の時からバイトしてて、そこのマスターさんが「いや、絶対に富山帰っちゃいけない」って言ってくれたんですよ。

  • 執筆者の写真: 神保町 ふらっと
    神保町 ふらっと
  • 4月17日
  • 読了時間: 59分


__生まれはどちらですか?


 はい。えっと、生まれは、富山県〇〇市というところです。富山行かれたことありますか?


__いえ、あの大学の友人がいて、話を聞いたことがあるだけで、行ったことがないですね。


 そうなんですね。その富山で生まれまして、3人兄弟の末っ子です。かつ、家はおばあちゃんちの横って感じで、おじいちゃんおばあちゃんちの横という感じで、敷地内同居みたいな。


__建物は別々にある?


 建物は同じ敷地の中に自分の家っていうか、私と親世帯の家と、おばあちゃんおじいちゃんの家が別にあるみたいな形でした。はい。


__末っ子で、じゃあおじいちゃん、おばあちゃんとも、その交流というか、一緒に過ごす時間もそれなりにあった?


 そうですね。 まさにそうで。 ちょっと飛んじゃうんですけど、年代が。 小学校の、もう丸6年間ぐらいはずっと「学校終わったらおばあちゃんちとかに行く」みたいな。 それが日常ではあります。


 お兄ちゃん、お姉ちゃんはそういう時もあったと思うんですけど、なんだろうな、兄弟でワチャワチャするから、自分の家の中でワチャワチャしてたみたいなんですけど。お兄ちゃん、お姉ちゃんが部活とか行くようになると、末っ子が一人になって、そうすると「おじいちゃんおばあちゃんち行ってきなさい」みたいな感じで。親が夕食作ってる間に、私はおじいちゃんおばあちゃん家で過ごすみたいなことも多かったです。


__じゃあ、お兄さん方が部活とかに行って、「おじいちゃんおばあちゃんの家で遊んでもらいな」みたいな感じで。


 みたいな感じですね。 なのでもう、実は私のおじいちゃんおばあちゃん家、今年取り壊すことになって。こないだ、片付けのお手伝いみたいなので行ってきたんですけど、そこに柱があって、身長を測る印をつけてる柱があるんですけど、それぞれのお兄ちゃん、お姉ちゃん、お兄ちゃん、私みたいに書いてあって、そこはあの印が私だけ圧倒的に多くて。 2週間単位とかでやってたし。 確かにめちゃくちゃミリ単位で刻んでて、お兄ちゃんお姉ちゃんはスカスカみたいな。


 で、「あーめっちゃ通ってたんだ」。 そう見えておもろかったです。 小学校時代ってめっちゃ伸び早いじゃないですか。 私はその時代におじいちゃん、おばあちゃんち行ってて、いつだろ、でもお兄ちゃんお姉ちゃんはあんまりその時期は行ってなかった。 行ってたと思うんですよ。 記録はなくて、私だけの線をガーって入れて。


__一番行く頻度が高くて、そのたびに。


 そのたびに伸びるのが嬉しくて測ってもらったんですけども。柱に刻まれてます。


__おじいちゃん、おばあちゃんからしたら可愛い孫だったんですかね。


 だと思ったんですかね。 でも、ちょっとこっからオフレコかもしれないんですけど、なんというか。 後でまた話すかもしれないですけど。母親は嫁いできたわけですよ。 あのこっちの世帯に。 だからおじいちゃん、おばあちゃんにすごい気を使ってる感じだったから、おじいちゃん、おばあちゃんに。 義理の父母という形なんですけど。


__お父さん方のおじいちゃん、おばあちゃん。


 そうそう。 なんで、孫を行かすことで関係を緩和してるみたいなことをちっちゃいながらに感じていて。 お菓子持たせてくれたりとかはするんですけど、「関係性を繋がせられてる」みたいな役割はちっちゃいながらに感じていて。だから、おじいちゃんおばあちゃん家に行っても楽しいんですけど、なんかすごいいい子を演じていた感じは。 「すごく美味しいです」みたいな。お菓子とか出していただけるんですけど「めちゃくちゃ美味しいなー」みたいな感じの振る舞いをしていたなとちょっと振り返って思います。


__あー、じゃあそのお母さんの、その、おじいちゃんおばあちゃんへの意図というか気遣いみたいなのを子供ながらに分かっていたというか。


 察していたみたいなとこはあるかもしれないです。


__なるほど、じゃあ。気楽ですよね、その孫の立場で言うと。楽しくしてればいいから。


 そうですね。ちょっとお母さんの気持ちがちょっとわかりますけれど。


__あーそんなことがあったんですね。


 うん、思い出したらですね。


__お兄さんお姉さんとはそんなにあんまり遊ぶ時間がなかったですか?


 遊んではいましたね。えっと、転勤族だったんですけど、富山に生まれて、で、そこから金沢行って東京行って富山に戻ってきてます。


__はい。


 えっとー、その富山帰って来てからのおばあちゃんおじいちゃん家があったんですが、ここまではなんか三兄弟でわちゃわちゃみたいなことが多かったですね。 すごく仲がいい兄弟と思ってました。


__転勤族でどこに住むかというと、その会社が持ってる社宅?


 はい。に住んでて、もちろんその三兄弟で遊ぶプラス加わったのが、その社宅にいる子供たちが結構いるんですけど、その子たちともわちゃわちゃ遊ぶみたいなことは多かったです。 三兄弟プラスみんなで遊ぶっていう記憶は大きいです。


__なるほど。じゃあ、その親御さんと同じ会社にお勤めの方の家族の子供たちみたいな。


 そうですね。


__近所の子供たちも。


 今でも繋がりもあって。会ったりとかじゃないんですけど、親経由で。元気してるよ、写真送られてきたよみたいなことはあります。


__あー、近況が。


 近況が。三兄弟も仲良かったし、そういう繋がりもあって、なんかすごい愉快なにぎやかな幼少時代だったなと思います。


__僕の中で時系列がそのおじいちゃん、おばあちゃんの家と一緒に住んでいた時期が、その今おっしゃった社宅の時期より前? あ、あと、富山に戻ってきた後。


 うん、戻ってきた時は、富山生まれてすぐぐらいに金沢に行って、金沢に3年ぐらいやったんですよ。


__はい。


 で、そこから東京行ったのがそれも 2、3年ぐらいで、ちょっとここのそれぞれの年代がちっちゃかったので覚えてないですけど。要するに、東京から戻ってきたのが小2、小1から小2になるぐらいの時期です。


__そこで、おじいさん、おばあさんと。


 そうです、すみません。


__なるほど、はい。


 そうですね。あの正直、富山、金沢の時代は覚えてなくて。幼稚園入る前ぐらいだったので、そこまでは。覚えてるのは東京からなんですけども。記憶として残ってるのは、実は母親がずっと近くにいてくれたってことです。専業主婦で、母は。で、父親が働きに行ってっていうのが続いていて。で、なんか母親がいろいろ本当に愛情を注いでくれたっていう記憶があって。ずっと一緒にいてくれたし。


__はい。


 いろんな場所に東京の時も連れて行ってくれて。表参道にある絵本屋さん。

__あら。


 うーん、何だったかな、いろんな公園とか連れて行ってもらってました。 ずっと近くにいるので、社宅の中での親同士のいろんなお話があって、戻ってきて。 「あのお母さんさ」みたいなことをずいぶん話してくれるので。 「あ、気遣ってるなー、大人って」みたいなのがずっと見えてきました。「なんか大変だなー」とか。でももちろんそんなずっとぼやいてるわけじゃないけど、そんな表情はあんま見せないんですよ、逆に。 そういう瞬間に何でこんなに大変な…ってずっと感じてて、富山来て、おじいちゃんとおばあちゃんとの暮らしになったので、より見えて、いい子いい子でいるみたいなのがあったかもしれないです。


__じゃあ結構お母さんと一緒の時間が長くて、あの、結果お母さんの考えてることもまあこう伝わってくるというか。


 全部は見えてないですけれども、その、ちょっと、っていう部分はあります。 まあ、父親も土日は家にいるので、まあ家族で土日はどこか行くみたいなのはありましたけど。母親との時間が多いです。 っていうのも話しながら気づきました。 はい。


__幼稚園とか保育園とかは行かれてたんですか?


 幼稚園に行きました。 朝、自転車で母親が。 幼稚園は東京の時だからですけど。 母親が自転車の後ろに乗せて送ってくれて。 家の近く、社宅の近くにあったので。 で、まあ時間になったら迎えに来るみたいな。 なんか恵まれてましたね。働いてないというのもあって。 母親も時間融通を利かせてくれて。 そうですね。


__やっぱりお兄さんお姉さんがもうある程度小学校中学生とかになっていたから、あの、一番そのお母さんの面倒を見ていたというか。 そういう感じなんですかね。


 そういう感じもありますね。 幼稚園までは。 小学校入ってからは、何かあれなんでしょう、私がいて、すいません。 全員同じ小学校に通うって時期もあったんですけど、お兄ちゃんが2個上、3個上で、お兄ちゃんが高校生になって、私が小1で小6。 一緒に登校したり、その時期は1年間だけですけど一緒に登校して。 小学校の中でもお休みの休み時間とかは、お兄ちゃんお姉ちゃんは見かけると「あ、✕✕(話し手の名字)の妹じゃん」みたいな感じで、なんかわちゃわちゃわちゃわちゃ多いです。 わちゃわちゃっていう言葉で全部くくろうとしてますね、私。


__そのお兄さんお姉さんの友達からも認知されててってことですよね。


 認知されてて。楽しかったです。暗いエピソードとかは…。


__いや、そんなことはないです。あったままを。思ったままを。はい。


 東京が小1まで。で、小学校までが、社宅がA町(東京の地名)にあって。

__A町。


 A町はすごく楽しかった思い出なので、こっち来てからも大学に来た後、こっち来てからもたまに行ったりして。あとは家族ともたまに行ったりして。懐かしいねみたいな。歩いたりしてます。


__じゃあ、思い入れのある場所というか。


 そうですね。楽しかった思い出のある場所です。


__話を聞いてると引っ越しがかなり多いですよね。


 引っ越し多いですね。


__数年ごとに場所を移るというような。


 はい。 もう、典型的な転勤族みたいな家系ではあったので。 そういった意味では、もう転校生っていう立場になる場面が多くて。もちろん転勤族でもいっぱいいらっしゃるんですけど。 ずっと他の家庭とはその部分で違うのかなと思ってはきて。挨拶するたびに「初めまして」みたいな時に「富山から来たの」みたいなとか、こっち戻ってきてからは「東京にいたんだねー」みたいな、言葉が出てこないんですけど。 特異な存在に、自分はいるんだなみたいな意識はありました。 それがちょっと、あの、自慢することでも何でもないんですけど。 そういうのが苦しいとかじゃなかったから、苦しいまでも行かなかった。 客観的にあんまり見れてなかったと思うし。 そしたら、引っ越していることに関しては、あんまり「まあそういう家庭なんだな」みたいな 感じでしたね。


__引っ越しをしてないで、一つところにずっといる子どもたちからすると、ちょっと、なんかね、違っているという。まあそんなネガティブでもポジティブでも特になく。


 はい。愉快な記憶って忘れてくらしいですけど。 ないんですよね、あの、あんまり覚えてる記憶が。なので、楽しかったかもしれないです。自分の中で。


__めちゃくちゃいいことだと思います、それは。


 ですね。はい。ちょっとお話できるものもあまりないんですけども。すみません。


__あー、いえいえ、全然大丈夫ですよ。


 で、中学校で、その、富山のおじいちゃんおばあちゃん近くに戻ってきて。そこからしばらくそこで暮らす予定で。そうですね。そこから高校の3年生までがずっと富山でした。富山は、帰ってきてまず一発目に覚えてるのが、冬が寒すぎるという。


__あー。日本海側はそうですよね。


 そう、なんです。だから、まあまず雪が降りますよね。雪が降って、かつ、日本海側の雪って水分が多くて、なんか床というか地面がべちゃべちゃになるんですよ。


__うーん。


 で、それをま、初めて体験する小2の冬がすごく覚えてるんですけど、あの、まあ、長靴を履いてたんですけど、途中で染みてきちゃって。


__ああ。


 あの、登下校も三十分間歩くんですけど、その道の序盤ぐらいで染みてきて。 なぜかその時一人で帰ってて、私もう居たのかな。 で、家に帰る時に泣きながら帰って。途中から泣きながら帰って、で、親が毎日かわかんないですけど、帰ると迎え来てくれてて、玄関とかで。 玄関の前で待ってて。 で、帰ってくるのを遠くから見てですけど、泣きながら帰ってくるから、あっちから来て、大丈夫? どうしたの?何かあったの?って。過保護なのかもしれないですね。なんか今思ったら。


__いや。


 泣いてごめんね、ごめんねって言われたのを覚えてます。ごめんねじゃないけど。とりあえず寒いみたいな。とりあえず寒いって言ったのが帰ってきた時の強い記憶です。


__ああ。想像を超えてきっと寒かったんですね、富山。


 そう、そう。きっと。まあまあ、雪降るのは嬉しいですけど。それを体感した冬の思い出でしたね。


__親御さんからしたら何かわからないけれど、泣いて帰ってきた、どうしたんだろう?


 寒い寒いっていう。あーごめんねって。


__そうですよね。


 ごめんねじゃないけど。富山に生きてたなって感じですね。えっと、はじめましてみたいなのが色々あった後の強い記憶です。


__雪の富山で暮らされてたんですね、じゃあ。


 うん。


__やっぱり雪が、雪がすごい富山の中で、じゃあ冬はずっとそんな感じだったですか?


 あ、そうですね。 今はそんな降らないってなってきてますけど、その時は一メートルぐらいは積もっていたので。


__除雪とかあるのかもしれないですけれど、普通に登下校大変そうだなって今思っちゃいました。


 そうですね、絶対。 親は雪かきをして、朝、その上を通っていくという形で除雪車も通ってます。 富山特有の雪なのが凍らないので、水で融雪ができるんですよ。 融雪装置は道についていて。 で、水が常に出てる状態なので、更にジョボジョボになってて、水の中を歩いていく。 雪と水の混ざった。


__あー、長靴ですね、それは。


 そうですよね。こっち来て、洗礼を受けた感じですね。


__その記憶が強い。


 はい。そうですね。小学校にはでっかい、でっかい、なんていうんですか、丘みたいなとこがあって。そこで毎年毎年そりをするのが。


__あー。冬場に?


 冬場に。今もう小学校なくて、ゲートボール場になったりして。冬場にその丘で、滑ってたなっていうのが。


__小っちゃいスキー場みたいなものが。


 そうそう。薄い話ですみません。


__僕、僕は全然薄さ感じないですけれど。はい。


 ありがとうございます。小学校ですよね。話しながら思い出していいですか?


__あー、もう全然、はい。授業のことでも、友達のことでも、おうちのことでも、はい。


 小学校の時は平和でしたね。一言で言うと。


__平和。


 平和で、平和だなと。 ずっとずっと平和だ。町会、町内会みたいな。 家の近くに住む人同士で仲良くするみたいな感じが多かったですよね。 どうしても登下校とかもそのグループでまとめられるので、私はそのゾーンでまとめられて。 で、かつクラスでもグループできるじゃないですか。


__あ、できますね。


 そのグループも自ずとその地区ごとになっていくみたいな構図は大きく。


__家が近い者同士で。


 そうそう。でも、その時に、あのこの時にはあんま友達とはみたいなこと考えないじゃないですか。楽しいから一緒にいるみたいな。振り返ると、やっぱあんまり合わない子と一緒になってました。


__うーん。それは今思うと、ですか?


 そう、今思うと。なんか、とりあえず一緒にいようみたいな感じでしたね。「よくやってたな自分」って感じですね。


__合わないというのは。


 はい。 また、なんだろうなって。 あの、三人だったんですけど、私含めて。 三人っていう構図もまず良くないなと思うんですけど。一人は勝ち気な女の子。 絶対1位じゃないといけなくて、あの、もう一人はまた誰にでも優しい笑顔の子で、私、みたいな感じで。 私もその勝気な子に気を使うみたいな構図が発生していて。 楽しくはやってたけど「友達って何なんだ」みたいなのは一人になった時考えてましたね。


__ああ。じゃあ、フラットな感じではなかったかもしれない?


 かもしれないですね。「親友だよね私たち」みたいなのが勝気な子はよく言っていて、「親友ってなんだ?」っていうのが。なんか、ずっとわちゃわちゃやっている上ら辺に第二の自分がいて、冷静な言葉をかけてくるような状況でしたね。友達って何なんだろう。でも、表面上は「楽しくやろう」みたいな感じの。こう、でもそれも友達もそうだし、おじいちゃんおばあちゃん家に行ってる自分もそうだし。 そういうのがあるかもしれないです。 ひねくれているのかな。


__その場、その場その場で。


 みんなそうかもしれないですね。思い出したらそうかもしれない。


__はい。その、その三人組で遊んでいることが多かった?


 そうですね。お家行ったりとか。お互いに。


__その、勝気な女の子がいて、平和だったんですかね、果たして。


 平和にしてたんじゃないですか。


__なんか、少なくともケンカとか起きるような感じではなかったっていう。


 ではなかったです。均衡を保ちつつ。


__均衡。


 保ちつつ。荒波をたてるみたいなことは絶対にしたくなかったんですよね。めんどくさいし。


__めんどくさい。


 という感じですね。それも、三兄弟の中で兄と姉が結構なんか喧嘩してたんですよ。それを見てたからかもしれないなと思いました。


__ああ、「ああいうの嫌だな」っていう。


 嫌だな。そうですね、みたいな。それと、これは後から聞いた話なんですけど、その二人が喧嘩してるのが、例えばおもちゃ取り合いだった時に、喧嘩してる間に私はそのおもちゃを使う、みたいな。


__漁夫の利が。


 漁夫の利みたいなのがある、あったみたいで。本当に。元祖漁夫の利、って感じのことがあったんですよ。


__ちゃっかりエピソードじゃないですか。それ。


 ちゃっかりエピソードですよね。そういった社会にいたから、なんかこの「争いごとが何も産まない」みたいなことを見ていて均衡を保っていたっていうのは。すいません、これは無理やりつなげてるかもしれないかも。


__いえいえ、なるほど。お兄さんお姉さんの争いを見て。


 自分は得を得るみたいな。ずるいですよね。


__ケンカの当事者は得をしないという教訓というか。


 何も生まないですよね、めちゃめちゃ平和でしたってずっと言ってるんですけど、避けてきたのかもしれないですね。見ないようにしていたのかも。よくないですね。というのが小学校ですね。で、中学校上がるときに、あの、その仲良くしてた方とも別れがありました。


__あ、そうですか。学区が…とか。


 そう、なんか普通だと小中と同じ学区で公立で行くっていうのが通常なんですけど、私のとき、隣の地区で新校舎が建ちます。あ、その違う中学校で。で、新校舎建つで、あの「他の地区からも生徒募集しますよ」みたいなのが。


__あ、そんなことも。


 で、それは何で決めたかというと、くじ引き。


__くじ引き。


 くじ引きで。


__運ですね。


 そう、そうなんです。で、私とその勝ち気な女の子が一緒に行こうよって言って、一緒に行ったんですよね。で、体育館みたいなとこで、こう本当にくじ引くんですよ。


__へえ。


 回して。で、私が引いて、その女の子が引いて、私だけがそっちの中学校行けることになった。そのときの番号今でも覚えてるんですけど、二十七番。


__二十七番。


 三十番までが入れるんですけど、二十七番を見て「ごめんね」みたいな。「私だけ行ってくるよ」っていう感じになり、内心ちょっと「よっしゃー」みたいな気持ちありました。


__その一緒にいる時間はなくなるっていうか、別々になるわけですもんね。


 そうなんです、そうなんです。なんか公立の小学校の卒業式でも、あんまりみんな泣かないんですよ。みんな中学校一緒だから。実質小学九年間みたいな感じになってるから。


__スライドで。


 あ、そう、スライドで。私だけ「抜けさせていただきます」みたいな感じになりました、中学校。


__新しい方に行った子のほうが、じゃあ数としては少なかったんですね。


 数としては、私ともう一人ぐらいぐらいですね、その地区から行ったのが。


__じゃあそれ以外はそのスライドで行って。


 そう、スライドで行って。で、私はなんか新しい環境みたいなところ行ってましたね。そこは、そのお母さんの母校でもあったんで、まあ母はちょっと喜んで。私はその今までの環境、平和と言っていたその環境から抜け出して、イエーイ!みたいな感じではありました。


__ああ。友達関係とかはリセットですよね。


 リセットですね。完全に。そのことには、ちょっとウキウキもしてて。引っ越ししてるのも、ま、慣れてるし、新しいとこ行きたい……抜け出したいって気持ちでいるわけじゃないんですけど、ウキウキはしてましたね。中学校からは新しい学校でのスタートでした。 中学校三年間はすごい楽しかったです。すごい楽しかったです。小学校の時は友達を選ばず、あの転校生ってすごい弱い立場でもあるから。新しいコミュニティに入って。 初めに仲良くしてくれたのが、その子たちっていうか、勝気な子と一緒に帰ろうねみたいな感じで言ってくれたからという枠の中にいた感じだったんですけど、中学校はもうなんか一から、ゼロからのスタートだったので、やりやすかったですね。息がしやすかったというか。


__息がしやすい。


 はい。 もちろんその中学校も小学校、中学校と上がってくる子はいるので、もうコミュニティはできてはいるんですよ。でもなんか外部から来る子っていうのが逆に息しやすかったのかもしれないです。 もうできているコミュニティじゃない人たちっていう枠だったから。逆に変に型にはまりすぎることもなく。自由にコミュニケーションできたのも良かったです。


__へぇー。じゃあ、友達を選べるようにっていうのがありましたけど。


 「あの子と仲良くしたいな」みたいな。それがあって。そうですね、あります。ありました。中学校は、吹奏楽部に入りまして。吹奏楽部がすごく印象に残った三年間ですね。


__部活が。


 部活が、はい、そうです。1年生の時はまだ普通の学校の、普通にやる部活だったんですけど、2年生の時から顧問が変わって、顧問の先生が強豪校からやって来た先生が来られまして。


 年代としては四十代後半なんですけど、あのピチっとしたポニーテールで、めっちゃじゃないけど厳しい先生がきまして。急になんか「挨拶強化」みたいになったり、走るみたいな、いわゆる強豪校メニューが徐々に取り込まれていって、やってる身としては「あれこんなはずでは、こんなはずではない」みたいな感じなんですけど。やらざるを得ない。


 やっぱりそういう方が入ると、そう、部活の雰囲気もガラッと変わって、かつ技術も上がりますよね。メキメキと上達する。その組織の中にいて戸惑いを感じつつも、頑張ろう。やらんばいけん。


__急にピシッと。


 急にピシッとしはじめる先輩、同期みたいな構図があって。その年は金賞だったかな。コンクールがあって、銅、銀、金とかあって。一年生の時は銀、二年生の時は初めて金を取った。三年生の時に金で県代表になったんですけど。なんか黄金期みたいなところにいて。それがめっちゃ記憶に残ってるんです。


__それはその代表っていうと、その北陸大会みたいなのに出るっていうことですかね。


 そうです。県ごとにやってて、県の中で決めて、県代表が決まって。 その後、北陸大会っていうのが富山、石川、福井の強豪が競うみたいな。 そこに3年生のときに行けて。


__すごい。


 すごい「こんなはずではなかった」って思いながら、受験勉強もしてたみたいな気持ちもありつつ、三年の夏から秋にかけての県大会に向けてめっちゃ頑張る。


__先生が変わったら違うんですね。


 本当にそうです。組織の上が変わんないと何も変わんないなって、そのとき思いました。


__結構部活に打ち込んだ感じでしたか。


 打ち込んでたんですね。


__勉強しなきゃみたいなのをおっしゃってましたけど、部活を頑張って三年生になって引退してみたいな感じですか?


 あ、そうですね。引退して、夏から秋にかけて引退して、そこからめっちゃ頑張る。うん。めちゃめちゃ頑張りました、勉強も。すみません。部活の話に戻るんですけど。


__あー、全然。


 何かに打ち込んでるのが、その時何もなくて。小中。で、三年目のその県大会の時が、わたしソロやってたんですよ。


__すごい。


 で、なんかマジでプレッシャーというか。これがプレッシャーか、みたいな時に。「やりきる」みたいな体験をして、初めて泣いたっていうか。すごいキレイなエピソードがなんか思い出に残ってますね。そのときに、吹奏楽のコンクールってDVDも売られるんですよ。思い出ね、みたいな。 その時に終わった後に見て、他の保護者から言われたのが、私の楽譜の後ろからカメラが、カメラワークが捉えてた場面があって、私の楽譜の上に「楽しむ」って書いてあったんですよ。


__おお。


 そのカメラマンが写してくれて「すげえ粋だな」と思ったんですけど、楽しむ気持ちみたいなのがそこで醸成されたのかもしれないって今思います。そのカメラマン粋でした。


__めっちゃいいですね。知り合いから聞いただけなんですけど、なんか先輩と後輩とかが譜面に何かいろいろメッセージとか書く文化ありますよね。


 あーありますよね。そういうこと、ありましたね。頑張ろうねってなんか丸文字で書いたり、あんとき流行った丸文字で書いたりしてましたね。


__詳しくないんですけど、ソロって一番うまい方が吹くイメージなんですが、顧問の方が「あなたがソロをやりなさい」みたいな。


 みたいな感じだったと思います。そうなんですよね。その、メンバーもたくさんいて、オーディションだったかな。それで選んでいただいて「えー、俺?」みたいな。それまで表に立つみたいなのはそれまでなかったんで、戸惑いました。


__あ、それはなんか自信満々とかではなくて。


 自信満々とかではなくて、全然。どっちかというと、たとえばその勝ち気な子を立てるとか、そういう立ち位置でしたし。後ろでやってきたのが急に前に立って。「これは楽しむしかねぇ」みたいな意識はあったかもしれない。なんかいい話にまとめようとしてる自分がいますよね。


__いい話しだからじゃないですか。


 いい話だからかなぁ。多分辛いこともあったんでしょうが。忘れようとして忘れたんですね、きっと。


__先生が変わってからの練習はきつそうですけど。


 きつかったですよね。河川敷走ったりとか、腕立てして、あー、背筋腹筋したりとか。


__運動部じゃないですか。


 運動部でした。辛いこと悲しいこと、あっただろうに。忘れる人なんですね。高校からですね、つらくて。高校からしんどかったですね。


__それはしんどいのはどういったところが?


 高校は、いわゆる県の学力一、二位とかのとこに、入りました。 でまあ公立なんですけども。富山自体がこう公立の学校の方が多い、私立とかよりも。 私立がもう、一、二校ぐらいであとは公立みたいな感じで、そこに行きました。 そこが、 自分の親、父親も母親も、兄弟、兄と姉も行ってた学校で、自動的に行ったといえばそうなんですけど。急になんか、うーん、何だろう、高校って「みんな楽しくなる」みたいな。 みんなじゃないですけど、高校は楽しかったみたいな話をよく聞くんですけど、私は逆で。なんだろう。 その時、私多分、アイデンティティが確立してなくて。


__というのは?


 その組織の中でどう振る舞っていいかわからないみたいなのがありました。 なんかその、今まで小、中と友達の中で求められるとか、親の中で求められることはできたんですけど。 高校はもうみんな自我を持っていて、多分求められるものを演じるっていうのがわかっちゃう、わかられちゃう。


__演じてることがバレてしまう。


 バレてしまうんだろうな、みたいなのが、ちょっとしんどくて。 どう振る舞っていいかわからん、みたいなのに陥りました。 多分、その友達から見たらそんなに感じなかったのかなとは思うんですけど、私自身はちょっとつらくて。 教室の、授業中はいいんですけど、休み時間とかはなんかしんどかったですね。


__それは、話し相手とか、お昼食べるような人はいるけどしんどい。


 いるけどしんどい。 で、何かな、高校になっていわゆるヒエラルキー的なものが生まれるじゃないですか。


__生まれますね。


 中、小もあったんですけど、ゆるふわな牧場みたいな、小学校、中学校だったんで。 本当にあの、牧場でした。 小、中。 高校に入って、いわゆる。


__カースト。


 カーストみたいなのが見えて「これが本当の」ってなりました。その中での振る舞いが私はあんまり得意ではないかもしれない。いわゆるそのカーストのどこっていうと、多分最下層ぐらいだとは思うんですけどね。 なんかその構図が苦手でした。一軍、二軍、三軍みたいなのはあるとは知ってたんですけど、目の前に立ち現れると、これが、あー早く逃げ出したいなあって思いました。


__なんでしょう。 その、わからないですけど、その何軍ごとにこういう振る舞いをしろみたいな圧みたいなものがあったっていうことですかね。


 圧みたいなのはあったかもしれないですね。 やっぱり。 「こういう風にしろ」っていうのを彼らは発してないと思うんですけど、なんか受け取っちゃって。だから同世代だけど、なんかちょっと下から行かないといけないみたいな気持ち悪さとかは、感じていて。 なんかずっと嫌でしたね、高校。 ずっと嫌でした。なんでだろう。


__クラスの人間関係が?


 クラスの人間関係も。高校、全部、全部、ちょっとクラスの人間関係が。 いじめとかはなかったんで。なくて。 でもずっと生きづらさを感じていて。 それぞれにキャラクターがあって。それがコンテンツ化してるような印象があるんですよ。


__コンテンツですか。


 なんかその人ごとにキャラクターがあって、それに価値があるとか価値がないみたいな感じがして。 自分の中ではそういう風に見えちゃってて、ああ、あのキャラクターだから価値があるんだなとか、それがちょっと見えて。「じゃあ私はどうなんだ?」みたいなところで苦しいっていう。それがあの大きく見える一つのあれなんですけど。体育祭の後にミスター・ミス投票みたいなのが。メーリスで回るんですよ。誰々が何票あるとか。ミスター〇〇(高校の名前)、ミス〇〇を決めるっていう伝統的なのがあって。


__昔ありましたね。


 昔ありますよね。 それで何か一人一票を投票して集計したものが回ってくるんですけど。まあなので体育祭の後だから。 例えば団長とかは、 票を集めて一位何票なんとかさん、とかコメントがずらーっと並ぶけど、それを見て、つらい。こんな風に差があって、なんか数字として人望みたいなものが測られていて。 その裏にはその人の人格であったり、頑張ってる姿勢みたいなものがあるわけで。 そこがこうやって可視化されるのって残酷だなみたいな。それで感じました。


__ああ。


 っていうのもあり、その同じ世代でいるはずなのに順位が決められるとか、そういう順位もあったし。 もちろん学力での順位はあったし、何位っていうのもあって。 もちろん自称進学校なので。その順位はその都度出るわけですけど、テストのたびに。そんなふうに並べられるのはしんどかったです。


__目に見える形で序列がつくというか。


 そうですね。甘っちょろい根性と思われるでしょうけど。それが小中のときなかったから。戸惑ったっていうのが大きいかもしれない。だから嫌だったのかなぁ。


__それはもう入ってから卒業するまでずっと。


 そうですね。逆にそれが勉強のモチベーションになってました。「こんなところ抜け出してやる」みたいな。


__こんなところ。


 こんなところ。高校ですね。こんな高校。なんか不健全なモチベーションでしたけどね。


__勉強は頑張れちゃった?


 勉強は頑張れました。何くそ根性みたいな感じです。で、その勉強してて、その何くそ根性と、もう一つのモチベーションがあって。東京ってモチベーションがありました。


__ああ。それがやっぱりA町(東京の地名)の思い出とかがあったからですかね。


 そうですね。A町の思い出と、あとちょっとこの抜け出してやるみたいなところに通じるんですけど。ずっとラジオを聞いてました。ラジオは小学校はじめぐらいから聞いていて。 っていうのはその親がいろいろ土日に車で連れ出してくるので、ずっと流れてたのが富山だと FMとやまとか、こっちでは東京FMという番組をずっと聞いてて。そのコンテンツはまあ東京発信のが多かったわけで。 おのずと東京っていうのは近くにあるような幼少期。そういう時を過ごしてました。そのなかで、特に印象的だったのがこの神保町を舞台としたラジオドラマがあり、今でも続いてるんですけど。


 「NISSANあ、安部礼司」って番組はずっとその時から。なんかちっちゃい時は意識して聴いてないんですけど。中学校ぐらいから自分の部屋があって、ラジオがあって、そこでもうずっと流してました。


__東京のいろんな話が。


 そうですね、流れてきて。で、安部礼司から神保町の風景とか。自分で想像して、こんな街あるんだっていうのはずっと思ってて。高校の時はもう学校が嫌だったので、部活はやってたんですけど、部活の後はもうずっと部屋に籠もって勉強とラジオって感じでした。友達はいましたよ。友達はいたんですけど、その常時いっしょにいるみたいな感じではなかったですね。 だから大学選ぶときも絶対富山とかではなくて。東京の神保町とA町しか知らないから。 どっちかというと、安部礼司で聞く神保町にすごい惹かれていたので、近い大学を選ぼうと思って。 勉強頑張ってました。


__やっぱり進学校だったと思うんですけど、やっぱ東京のいい大学行くぞみたいな子は周りに結構いました?


 結構いましたね。東大の合格者が1位なんですよ。県で。みたいなとこだったんで、おのずと学力が高い人は東京とか、京大とか阪大とか。県外に行く子は多かったですね、自称進学校なので。


__ぜんぜん自称じゃない。


 周りもそういう方向で、私もそれに乗るみたいな構図ではありました。


__周りの子とはちょっとモチベーションが違ったかもしれない。


 そうですね、モチベーションが違ったかもしれない。なんかやりたいこととか多いですよね。なんか学びたいとか、周りの子とはちょっと違うものも混ざっていました。


__高校の居づらさだったりとか、あとラジオ、ラジオの情報だったり。


 あとはなんか、今だから思うんですけど、さっき高校から抜け出したいって言ってたんですけど、富山から抜け出したいっていうのもあったかもしれない。


__それっていうのは。


 それっていうのは、なんだろうな、2つあるなと思います。今思ったのが、まず、すごい母親のこと大好きなんですけど。母親の生き方というか、窮屈さを感じていて。っていうのは、その、富山にいたら、富山の自分の親が一番近いから未来像とかって思い描いちゃうじゃないですか。親みたいになるのかなあって。将来。

 これはあの、山内マリコさんの本があって。 山内マリコさんの「地方女子たちの選択」っていう本。 最近読んだからちょっと自認してるんですけど。親がよく、その「XX(話し手の名前)は好きなように生きなさい」って言ってたんです。それはあの、山内マリコさんも一緒で。 それ一緒だなと思って話してるんですけど。

 「XXは好きに生きなさい」っていう裏側は、なんか親が多分好きに生きれなかったっていう背景があって言ってくれてる言葉なんだなっていうのが今思うんですけど。 親は嫁いできて常に敷地内で義理の父母の…「監視下にはあった」は違うんですけど、目をつねに気にしていた。 もちろん専業主婦だから、家庭に従事するみたいな役割があって、そこにいなきゃいけない。 でもすごくあの、朗らかで明るくて優しくて強い母なんですけど。


__はい。


 なんか、もっと楽しく、もっと外に出たいだろうなって。 出たらすごい楽しいだろうなっていうのが子供ながらにずっとあって。


 母親も母親で PTAとか華道とか茶道とか習ってたりはしてたんですけど。もっと違う形で羽を伸ばす場所が、ステージがあったんじゃないかっていうのは今でも思っているので。 だからその「XXは好きなように生きなよ」「親の意見とか気にしないで生きなよ」みたいなのをよく言ってくれて。 その言葉が印象に残っていて。 富山から抜け出したいっていうのは、そういった母親みたいなって言うとあれですけど、縛られたくなかったって。 よくよく言う言葉ですけど。 というのが一つある。


 二つ目が、富山の、これもごめんなさい、山内マリコさんの本にも書いてあって「そうだな」って思ったんですけど。 さっきの母親とも通じるんですけど、常に監視下にあるという感覚がすごくあります。 富山が車社会なんですけど、常に車で移動している。それで、なんか私も車の中からよく見てたんですけど、歩道を歩いてる人がめちゃくちゃ目立つんですよ、富山って。


__基本車だから。


 基本車だから。 で、こっちは安全な外から見られない、車っていう環境で、その歩道の人を見るんですけど「あれはあそこのうちの〇〇さんや」みたいな感じで会話が車の中で生まれて。もちろんそれは聞こえてないわけで、なんかこう常に見られているような構図があったんですよね、富山の社会としては。


 だからこの車から降りて買い物する、みたいなのも常に人の目みたいなのを感じてたし。狭いんですよね。


__生活圏の人はみんな顔わかってるし。


 そう、みんなではないでしょうけど、みんなと思っちゃうような空気感なので、移動するのも、緊張するというか。

 私は高校までなので、もちろん何か「どこどこの会社の」みたいな人脈は知らないですけど。多分ですけど、「✕✕(話し手の名字)さんちの娘さんや」みたいなのを言われてただろうっていうのは常に思ってて。 その監視社会が苦しかったのかもしれないです。


 でも、最近読んだので、その「地方女子たちの選択」っていう素晴らしい本で。それに書かれてたのがまさにその通りだなと思って。それがあって、出たかったかもしれないです。富山を。


__あー、それは当時からそう思ってました?今思うとって感じですか?


 今思うとって感じです。当時はとにかく生きづらくて、苦しさの中にいました。なんでだろうって考えない、考えたくもないみたいな。 もちろん外出てからも富山に、よく帰省するんですけど、親も好きだし、富山も好きだし。


 今思うと、あの子育て世代からしたらすごい暮らしやすい。 水も美味しいし、ご飯も美味しいし、素晴らしいとこだなと思うんですけど、暮らすのはしんどいなって。 今でも思っちゃいますよね。 なんというか、その親はもうちょっとで、定年退職して、もうこれから体にガタがくるだろうしっていう未来はあるので、少し後ろめたさもあって。 今でもちょっと帰ろうかどうかみたいなのは思ったりはします。


 富山に対しては、そうですね、高校時代の苦い思い出と、今の状況、遠くにあって大事なものだけど、出てきちゃったっていう後ろめたさを両方感じてて。富山に対して。すごい大好きな場所だけど。 だけど…って感じです。


__後ろめたいですか?


 後ろめたいです。 やっぱりその友達は富山に根付いて子供も生まれてる子もいるんですよ。少ないですけど何人か。そういうの見てると、あ、自分もこんなふうに早いうちから結婚して親の近くにいて孫も見せられて、自分みたいに孫がおばあちゃん家遊びに行くみたいなのもできたのかなとかは、帰省するたびに思います。


__ああ。それは友達とかが子ども産んだりとかしててっていうのを見て。


 そうですね、見て。だから、神保町っていう街、私は大好きで住んでるんですけど、あのご縁あって近くに住めたんですけど。なんか大きな声では、富山にいる親とかにはあんまり言えないなっていうのがあって。


__それは神保町が好きだっていうことですか?


 「神保町が好きだ、今近くに住んでるよ、ハッピーハッピー」みたいなことは…。 まあもちろん喜んではくれるんですよ、親とか。好きな道に行けたから、行き着いたかわからないですけど、行けたから。 でもなんか「神保町来てハッピーだよ」みたいなのは言えないですね。 多分、なんていうか「よかったじゃん」って言いつつ、父親母親も「帰ってきてくれないんだ」みたいのは言わないけど、思っているだろうなって思うから。言えないです。 もちろん「楽しくしてるよ」とは、電話よくするので、言ってるんですけど。改めては言えない気持ちですね。まあ自分で出てきたんですけどね、好きで。背中を押してもらって。ありがたいことに。


__富山にいる家族とかに、ことさらその気持ちを最高だよみたいな、楽しいよみたいなことを言うことはできないっていう。

 できない。出ちゃってはいるけど。

__特に強調して言うとか、そういうことをしないっていう。

 しないですね。

__大学を選ぶときの考えとしては、県内の大学っていうのはなくて。県外、まあ東京。


 ですね。高校の時も、印象に残ってるのが、国語の教科書とか、地理の参考書に東京が出てくると、すごいグルグル赤ペンで囲ってました。 国語の教科書とか夏目漱石の「こころ」で早稲田とか、お茶の水らへんも出てくるんですけど。地図も載ってて。「 あー東京だー!ここ絶対行こう!」とかね。ホクホクしてましたね。


 地理の授業でも、あれだ、帝国書院の地図帳あるじゃないですか、緑色の。いま何色かわかんないですけど。あの東京の御茶ノ水のとこにめちゃくちゃピンクのペンでグルグルしてありました。 「絶対行ってやる」みたいな。ありました。


__教科書とか資料集に出てくるだけでも。


 出てくるだけでもう。「行ったるぜ」みたいな気持ちを醸成してました。


__そういう気持ちでもう、すごい勉強してじゃあ。


 そうですね。いうたら今考えたら狭いですよね、富山にいて。転勤族だけど東京と金沢しか見てなくて。固執してたのかもしれないですけど、東京っていう街に。


 まあ、もっと広い世界もあったし。もちろん、富山にいても、学びたいことに集中すれば、富山でもやりたいことは実現できただろうし。なんですけど、そのときは固執してました、東京に。


__もう東京しかないっていう。


 しかないみたいな。うん。狭かったですよね、私の考え方は。


__いやー、そんなこと、生まれてから一回も引っ越さないような子もいますから。全然なんか狭いなんてことはないと思いますよ。


 そういう家庭でしたかね。


__大学、なんか、東京っていうのでもたくさんあると思うんですけど、選択肢が幾つかあった感じですか?


 あぁ、一つでした。


__一つ?


 それも狭くて。それもとても狭いなと思うんですけど。私、〇〇大学(都内の大学)というところなんですが。 自称進学校って修学旅行がなくて、その代わりに大学探訪っていって、大学を巡ってOBOGに話を聞こうみたいなプログラムがあったんですよ。自称進学校なので、文系はT大、I大、その大学に行ったんです。その中で〇〇大は、なんか一番伸び伸びしてるなみたいな感じで。


 解像度もあがって、こんなとこ通んだって。で「もう〇〇大しかねえ」って感じになって。かつ〇〇大って、地理学、地理学を学べる分野があって。わたし地理がそのときめちゃくちゃ大好きで。その時から大好きで。もうなんか、何も考えてないですよね、将来のこととか。


 好きなものを選んだって感じです。地理を大好きだったっていうのも、高校の先生、地理の先生が世界中旅してる人で。地理の授業でいろんな世界を教えてくれたので。U先生っていう女の先生なんですけど、パワフルな。サッカー部顧問で。


 その人が、ブラジルとかナイジェリアとかアフリカとか。世界を旅するのが話を聞いて。 あーいろんな世界があるんだーって。 もう将来のこと何も考えずに、新しい世界を見せてくれる地理というものが大好きで。


 地図もそれで見るようになったし。 ああいろんな世界あるなあと思って。今、狭いところにいる、もっと広い世界があるんだっていう風に見せてくれる、地理を学びたくて〇〇大を選びましたね。 もっと考えてたら、多分、資格取れるとことか、なんか、そういう分野を学べるとこにいったんでしょうけど。 その時はもう好きなほうに一直線だったので。 一直線で追い風にはもう出たいっていう。 まっすぐその学校を選びました。


__I大とかいろいろ見た中で、一番雰囲気が良くて、かつ地理学もあった、という。


 神保町も近い、みたいな。ここしかない。〇〇大の赤本、目に付く場所にずっと置いてある。


__過去問解いたりして。


 過去問解いたりしてたね。その時に負けん気みたいなのを醸成したのかもしれないですね。


__じゃあ、〇〇大学に入るんだってもう勉強して。


 勉強して、そうですね。 うん。よくあるエピソードかもしれないですね。田舎から上京するというのがあり、たまたま受かって、ありがたいことに。たまたまでもないんですけど、親が塾に通わせてくれてとか。あるんですけど。ありまして、上京しました。


__結構何年ぶりかの引っ越しみたいな。 小学以来の引っ越しですかね、じゃあ。


 そうですね。長いっていうか。なので完全に親元を離れてってみたいのが発生しましたよね。


__部屋を探したりして。


 あーそれは大学の寮があったんですよね。 私はもう、そこに、抽選でしたけど、そこに入ることは決まってました。 親が探してくれたんですけど。 その寮のすごく思い出が残っていて。そこが板橋にあって。やっぱりめちゃくちゃ家賃が安いんですよ。月1万円。で、Wi-Fi が毎年、1年間で6千円しかかからない。使い放題。


__安いですね。


 そこも、地方から来た学生対象かつ留学生が来てるんです。〇〇大。留学生が住める寮棟ですとか、国際学生寮。 やっぱりそこはめちゃくちゃ良かったなと思うのが、上京しても寂しくないというか。同じ地方から出てきた、なんか右も左もわからない子羊がいっぱいるみたいなところだったので。


__子羊。


 だったんで、同級生もいっぱいいたんで、そこでコミュニティが生まれて、色々なことを聞いたり、教え合ったりして、こういうのは良かったです。


__そのなんでしょう、その学生寮の友達どうしで絡む機会みたいなのが結構あった?


 結構ありましたね。 で、そこで仲良くなった北海道の子は今でも月に一回会ってるますし。すごいいい場所でした。 あとはそのもう一つあるのが、国際寮なので留学生がすごいいっぱいいて。 そことの繋がりが大きかったですね。 私の中では。


__大きかった。


 今までがその富山の同じ年代の子たちとしか絡んでなかったことが、色んな世代の人、いろんな国から来た留学生との絡みもできて。 かつその最初国際交流とか全然興味なかったんですけど、そういう場所にいるから、ちょっと意識高いかもしれないですけど、国際交流サークルにも入ったんですよ。どうせなら楽しもうみたいな感じで、イベントとか企画したりして。 例えばこの寮にキッチンがあるんですけど、そこでみんなで餃子を作ろうみたいな会とか、江戸東京博物館みんなでいこう、みたいな企画をいろいろやったりして。 交流はすごい深めてましたね。 そこで、U先生、高校のU先生から聞いた話をそのまま直接聞けたりして。 やっぱ世界広いわーみたいな。 体感できました。 そこも狭いんですけど。


__ナマの話ですもんね。


 ナマの話。 そこで大きかったのは、べトナム人の女の方とすごい仲良くしていただいて。 そこの方と仲良くなったきっかけで、ベトナムに連れて行ってもらって、二回ぐらい。 ダナンとかハノイにそれぞれ一緒に遊びに行って。 現地の人とまさに交流するみたいなのが、そこで扉を開いてくれたりとか。 めちゃくちゃ良くて。 その寮に行ったことで。


__海外に行かれたのは初めて?


 初めてではなかったんですけど。ちっちゃいときにオーストラリアとアメリカには親につれていってもらったらしくって。アメリカは覚えてないですけど、オーストラリアは小1とかだったので。 海外には、行くのは抵抗はなかったですけど、その現地の人と物心ついてから初めて行ったのはベトナム、その時点で。 楽しかったですね。現地の人が現地の人しか知らないところに連れて行ってくれたりとか。交流も生まれて、そこで。友達も増えて。この体験は濃かったですね。


__めちゃくちゃいいですね。いわゆる分かりやすい観光地だけじゃなくて。地元民の目線で行くってことですよね。


 地元民の目線で。机の上に。 フォーを食べるんですけど。 ザルみたいなものに雑草みたいなのがバーって入ってきて。 それをフォーに乗せて食べる。 「何の草なの?」「でも美味しいから食べてみ?」みたいな。 不安になりながら。 お箸の長さ全部違ったり。 座るとこ全部ビールの缶。 ビールの瓶を入れてたやつをひっくり返したような。衛生的に大丈夫か? みたいなとこで、お腹壊さず美味しく食べるみたいな体験があって。 ありがたかったです。その後ろに牛が通ってたり。良かったな。


__カルチャーショックじゃないですけど、こんな世界あるんだみたいな。


 みたいな、ありましたね。まぁ、ちょっと話しそびれたんですけど、NHK の世界ふれあい街歩きって番組がめちゃくちゃ好きなんですけど。すいません、ちょっとニッチな番組なんですけど。


 その番組は 1時間ぐらいで、いろんな世界の国に行って、現地の人とお話をするっていう番組なんですよ。 リポーターは出てこないのが特徴で、カメラだけで「こんにちは」って。 ただ、ひたすら歩くみたいな番組なんですけど、それでいろんな国の様子をすごい見てはいたので、ベトナムも「あ、チャレンジで見たやつだ」じゃないですけど「あの番組で見たやつだ」っていうのはありました。 それで予習というか、シミュレーションはできてて。 味わうとか、においを嗅ぐの、音を聞くみたいなのは初めてなので。 その部分っていうと、いい意味で衝撃を受ける体験ではありました。こんなに暑いんだ、むわっとしてる、熱帯夜の。めちゃくちゃ、めちゃくちゃバイクのクラクション音すごいんですけど、ずっと鳴ってるやん。みたいな感じですね。やっぱ現地に行くのが一番だなみたいな、そんとき感じましたね。


__情報量が多いですね。


 多いですよね。海外行かれます?


__私ほとんどないですね。物心つく前にタイに行ったらしいんですけど、記憶にないんで。はい。でも、お話聞いてめっちゃいいなと思いました。


 物心つく前だとそうですよね。でも大人になってから行くのもいいですよね。おすすめです、機会と時間があれば。偉そうなこと言っちゃうと。


__現地の友達が一緒にいてくれるっていうのが最高だなと思います。


 そうなんですよ。街の人の声ってなかなか聞けないじゃないですか。その単独で行って。鬼コミュニケーション能力があれば別ですけど。行けないわけで。その介在者という方がいてくれたのは非常にありがたい。


__そうですよね。 一人で行ったら何もわからないじゃないですけど。


 そうですね。大学の寮の思い出ですね。大学は楽しかったんですよ。


__高校と全然違いますね。


 全然違いますね。 自由があるじゃないですか、大学って。 いい意味でも悪い意味でも。 それがいい方向に働いてくれました。東京、〇〇大っていうのは。〇〇大生もなんか群れるみたいな感じじゃないんですけど。いい意味でも悪い意味でも我があって。それぞれが自由に我が道を行くって生徒が多かったので、生きやすかったですね。


__各自がやりたいことを。


 各自がやりたいことを自由に。 全員、一匹狼みたいな感じ だったので、私は私で好きなことを。恵まれれていたんですけど、国際交流とか、神保町もそうだったんですけど。意識高いインターンとか行ったりしてました。 バイトとかもいろいろしてました。


__地理学がいいなと思ったってお話でしたけれども。 「地理が好きだ」みたいなのは特に変わらず?


 変わらずでしたね。でも入って思ったのが「将来大丈夫か?」みたいなのはずっと思ってました。 地理も、もちろん分野は広くて、地理も学際的なので。人文地理とか経済地理とか、自然地理とかもあるんですけど。 言うたら、こじつけてるだけで、その経済の専門家にはなれないわけですよ。 地理の経済地理ってなると。 だから、その武器を持つみたいなとこでいうと弱いから、社会出るときには。その不安はありました。地理自体は楽しいから、授業はすごい楽しくて、卒論でも神保町選んだんですけど、それはもう死ぬ気でやりましたね。全力で。


__テーマ的にはどんなことだったんでしょうか?


 テーマは最終的には、神保町の来外者調査でした。 来外者って街に来てる人。 要するに神保町に来た人がどういう動きをしているかを調査するというのが。手法としては、フィールドは古書店、本屋さん見せてもらいました。 フィールドは、八木書店という書店さんと三省堂書店という新刊の大型書店と、あと神保町ブックセンターという新しめのブックカフェっていう形式と、あと古書店もう一つ@ワンダーさんというサブカル目の古書店で四店舗で、それぞれ飲まず食わずで平日ずっといて、お客さんを観察してて。


 男性、七十代、どういう動きをする、みたいなのをずっと観察してて。 っていう、数の調査が一つと、聞き取り、どこへ行きましたかという聞き取りと、アンケート調査ということで、三つの参与観察と、聞き取りとアンケート調査というのを全部して、ずっといました、この街に。もうなんか根性でやってました。 お手洗いも行かずにずっとお店にいて。


__え!


 お腹すかないようにちょっとガム噛んでました。 お店の人に心配されて。「大丈夫?ずっと座ってやってるけど大丈夫?」みたいな。「大丈夫です、頑張るんで」って。 張り込みやってました。 何がしたいかというと、お店に来た人が、お店を経由としてどっから来て、どこに行くかを数として、定量的に定性的にまとめるっていうのが、研究でした。 まあ、分野としては経済地理学ということで。街の特徴としては商業集積による書店っていう形式、本屋か。という形式がまとまった街で、この特徴的な街で人はどういう動きをするのかという手法なんですけど。たとえば他で言うと日暮里が線維街だったり、高円寺は古着屋がいっぱいあったりみたいなのの延長線で無理矢理位置づけたんですけど。


 というふうに、私自身の興味としては、私も神保町って街が大好きなんですけど、何で好きなの? って言われると、答えられないんですよ。 色んな側面があって。その答えを知りたいっていう思いが、根本にあったかもしれない。 街に来ている人がどういう思いで、街に来てるとか、どこに行ってるのかが気になってしょうがない。それが根本にあってその研究になりました。


__なるほど。


 今でも実は、神保町なんで好きかは、わかんないんですが、その答えを追い求めた結果、あの研究になった。


__他の人が、なんで来て、どういうことしてるのかっていうのを見て、なんかヒントがないかみたいな。


 要点があるとすると、これは今でも答えは分からないんですけど、人がすごい魅力的なところだと思っていて。街に来る人。


 で、その人を深掘りたいっていう思いはずっとあります。 で、その研究のうちに顕在化して、今も続けてる感じです。 いろんな人がいて。大学の教授が、まさに研究書を探しにきてるんだ、話を聞くとか。あと、これは偶然なんですけど絵本作家さんが自分の個展を見に来たんだ、とか。もちろんこの街が懐かしくて、立川とかに住んでるけど来たんだとか。街に来た人に、直接聞くのがすごい楽しかったです。


 よかったな、大学生でって感じ。身分、大学生で卒論やってるんですって言うと、みんな話してくれました。この研究だけじゃなくて。あのときに聞けて、自分が何でこの街にこんな惹きつけられるのかを探すような行程でしたね。


__あー。あれですね。その、地理とかに興味があったところから、もう一つ掘ってみたら、人に興味が出てきたというか。


 そうですね。まさにそうですね。すごい良いことを言ってくださった。なんか、ぼんやりしていた街の輪郭が人で浮かび上がってきたっていう感覚がありましたね。


__駅とか建物とかではなく、人。


 景観とかではなく人。そうですよね、その人が街を作ってきたわけだから。両方ではあるけど、やっぱ原点は人であって。


__へぇー。すごい、個人的なアレですけど、卒論読みたくなっちゃいました。


 あぁ。三万文字ぐらいあるんですけど。PDFでよければお送りしますので。


__読みたいです。で、そんな感じで、卒論とかをやって。


 そうですね。そこでちょっとわかったのは、街に来る、神保町に来るひとりの人って、もう決まってるんですよ。自分の興味あるところに行くっていう。 それは、他の街でも一緒だと思うんですけど、この街独自だなと思ったのは、やはり、専門店が、専門古書店が、いっぱいあって、もう、際立ってるわけですよね。 それに惹きつけられて、その好きをもった、共鳴する人が、そこにいくっていうのが、なんか、いいなぁって、なりましたね。


 これは、今だから思う話が多いですけど、高校の一つの枠の中で群れて、小学校の決められた枠の中でいなきゃいけなくて。ではなくて、本当に「自分の好きで、動ける、自由に動ける」というのが 回ってる街かなっていうのは、そこで体感をして。 だから私、この街が好きなのかなと思いました。そのときに。


 好きとかなくても歩いてたら見つけられるんですよ。 見つけられることが多いと思ってて。書棚に行くと、自分の興味ある隣とかのほう惹きつけられたりとか、偶然手に取った、偶然それも出会いとしてあって、自分の好きも究められるし、他の好きも見つけられるみたいのが。しかも一人でね。 それがいい街だなと思いましたね。そのとき特に。 偉そうなことは言えないですけど、いちファンとして。 もちろん街の人にはなりきれないから。よそ者として思うのは、こういう一人の人が好きに向き合う、みたいな街だからかなって気がします。


__それは、その地元富山とちょっと対比してみたいなこととかあります?


 あるかもしれないですね。 そういう常に「監視」というと言葉強いですけど、自由に動けない、自由に動けないかどうかはその個人によるんですけど、自由に動きづらいって私が感じる街とは真逆とは言いませんが、違うところにある。その街、神保町っていうのが際立って私にはいいなって感じたんだと思います。


__卒論の調査とかを進めていくなかで、そういうふうに考えるようになった。


 そうですね。今までなんとなく好きだと思ってた街の輪郭が強くなった研究でしたね。研究って言えるほど研究してなかったですけど。


__いえ。そうして卒業されて。


 そうですね、卒業しました。そこで、またぶち当たるわけですよ。社会に出る。地理学しか学んでないが。しかも神保町って狭いとこしか学んでないから。危機ですよね。一種の危機に陥るみたいな。 日本の文系大学生が陥る危機ですよね。 陥りまして、だからそもそも地理学んで行く先っていうのが、地図会社。あと、卒業生の動向を見てると、公務員になる人が多い。 地方に、あるいはふるさとに戻って、みたいな。「それは絶対嫌だ」と思っちゃったんですよ、その時は。


__Uターンは選択肢になかった。


 選択肢になかった…ちょっとは考えたんですけど、親の介護とか考えたら。そうだ、その時はバイトしてて、ジャズ オリンパス!っていう。 小川町にあるジャズ喫茶なんですけど、カレーがおいしいジャズ喫茶なんですけど。そこが大学2年生の時からバイトしてて、そこのマスターさんが「いや、絶対に富山帰っちゃいけない」って言ってくれたんですよ。


__いけない。


 いけない。 よくあのマスターに人生相談してたんですけど、お父さんみたいなので東京の。 このマスターに相談したんですよ。「富山帰るかどうか迷ってるんですよ」って言ったら「え? 富山にやりたいことあるの?」って聞かれて。


 「いや、ないな。 あるとしたら、親の介護がおのずと発生するだろうし、そこに備えたいんですよね」という風に言ったら「そんな理由だったら帰んないほうがいい、そんな理由で帰ったら大好きなお母さんとか、お父さんとか悲しむんじゃない?」みたいな。「 だから、やりたいことやってから、そこから考えてもいいんじゃない?」みたいな。 マスターがKさんっていう人で、めっちゃキーパーソンですよ。その人が言ってくれたので、東京でやりたいことってなった時に、バカの一つ覚えなんですけど、地図、地理やりたいなと思ってたところを、今の会社、たまたま受かりました。


__大学の時はもちろん東京一択だったって話でしたけど、就活はいくつかいくつかあるその中でこの会社がいいという感じですか?


 そうですね。 いくつかあったけど、選択肢は、最終的には絞られてでしたね。 迷った末にやっぱりここかみたいな感じです。 だから、大学選びのときとそう変わらないかもしれません。本当に太い一本の道がずっとあって、やっぱりここだったかぁみたいな。 富山の道も他にの道もあったんですけど、やっぱ違うわって。 インターンとかめちゃくちゃ行ってました。外の世界色々あるやろって。 飲食とか、介護とか、旅行会社とか、銀行とか、証券とか、デベロッパーとか、絶対行かないけど見たりとかして。 やっぱ違うわ。 やっぱ違う、やっぱ違う、違うってなって。 やっぱこれかって。あなたでしたよね、って。再認識で、その地図会社にしぼりましたね、


__めちゃくちゃたくさん行かれて。


 めっちゃ行きました。


__結局やっぱりここだった。


 やっぱここだった。 だから苦しい時期でしたけど、良かったかもしれない。色々みて迷って、でも改めてここかみたいな。それで痛感したっていう。


 すごい迷ってていろんな人に相談して、特に覚えてるのはそのマスターの声もあって、迷わずでしたね、最後は。 なんかもう既に神保町というか東京のコミュニティは沢山ありがたいことにできてたので、そことも離れたくないっていうのが大きかったですね。 神保町で言うと、バイトとか。ナビブラ神保町っていう。風讃社っていう出版社のナビブラ神保町っていう媒体で、取材とかをさせてもらっててたんですよ。 Mさんという方が編集長で、街の人と話す機会が多かったんですけど。 神田カレーグランプリの方とも知り合いになって。一緒に、神田カレーマイスターって資格を取って。マイスター同士でワチャワチャ楽しくさせてもらってたりですけど。それもあって、あーまだこの街に居たい、街、東京っていうの広いんですけど。選んだのがこの会社でしたね。 まあ言うて、最初の配属は埼玉なんですよ。


__最初の何年とかですか?


 最初の 5年間、埼玉でしたね。長かったですね。


__じゃあ最初は「話が違う」って感じ。


 いや話は分かってはいたんですけど、もちろん説明会とかで「全国行かされますよ」っていうのは聞いてた上で。で、よかったですよね逆に埼玉で。神保町も通えたし。神保町も大宮から週3ぐらいで神保町行ってたので、1時間20分ぐらいかけて。


__愛がすごい。


 愛というか執着でした。 通っていて。 で、なんか無用の用さんっていう本屋さん、止まり木みたいな場所があって、そこ行ったり。あともちろん「おさんぽ神保町」編集長にお世話になったのでその方に会ったりとか。言うて目的なく行ってましたね。


 あの街の空気を吸いに行ってましたね。目的ないわ。 いま無用の用さんとか色々挙げたけど、空気を吸いにいってた感じですよ。ああ、もちろん振り返ったらいい街なんですよ大宮も。そこでもあれですね。何くそ根性というか、育まれた感じがします。


__それは大宮に対してですか?


 大宮から抜け出してやるみたいな気持ちはずっとありました。


__何でしょう、その、地元富山みたいな環境は大宮にはないのかなと思ったんですけど。


 ないです。 ただ、神保町への固執はあったので、神保町にいつか行ってやるみたいな気持ちはずっとありました。 もちろん真面目にじゃないですけど、仕事はしましたよ。そのときのなにくそ根性じゃないですけど、ラジオドラマずっと聞いてたっていうのがあって、自分で書いてみたいってのが芽生えて。あれかもしれないですね、自己表現みたいなことが不健全な感じになってたので。神保町に行けないってことに対して。 それでラジオドラマを自分で書いてみようっていうので、渋谷にずっと通ってラジオドラマの講座を受けさせてもらってましたね。


 そのきっかけも、話戻るんですけどジャズオリンパスでナビバラ神保町の編集長の方が安部礼司の脚本家の方につないでいただいたんですよ。Kさんという脚本家の方。その脚本家の方からしたら、私はラジオドラマ、安部礼司を聞いてわざわざ富山から上京してきたみたいな立場だったので「いや、嬉しいよ」みたいに会ってくれて。で、その方が渋谷でラジオドラマの講座をやってて。「来ない?」って声かけられて行ったのが大宮時代からでした。 そのときは「救い」みたいな感じで、ラジオドラマが。もちろん富山から来て神保町で研究してやりきったとは思ってたんですけど。やっぱり神保町には行きたくて。でも行けない自分、みたいな。なんだろうな。フラストレーションじゃないですけど、恵まれてはいたんでけど。そうあったのを、ラジオドラマに全部出せる扉みたいな感じはありました。もちろん会社でもいろいろあって。ハラスメントというか、パワハラ上司だったんですよ。


__それは大宮時代に?


 大宮時代に。パワハラ上司がいて、私には向かなかったんですけど、その上 司の部下の方への叱責が毎日行われていて。怒鳴り散らすのを横目で見ていたのが。同期も先輩もいたんですけど、話すんですけど、そこで消化しきれなかった何かをラジオドラマに出すみたいなのは行ってましたね。救いでした。ラジオドラマは。こんなはずじゃなかった、みたいな思いが正直あって。もちろん大宮の方も優しくて。いろいろお世話に。今でも忘れないんですけど、その恩義は。だから、こんなはずじゃなかったなーって思いをラジオドラマに演出していった。 直接は書かないですけど、違うかたちで。自己表現の場所をもらえたっていうのは、ラジオドラマに救われた部分がありました。ラジオドラマは富山から連れ出してくれたっていう文脈と、そこで来たこんなはずじゃなかったをかたちにしてくれる2つの面で救いでした。


__じゃあずっと渋谷に通って。


 そうですね。月に2回ぐらいだったんですけど。やってましたね。すごい、好きに対して執着する人間なので、ずっと方向は神保町にあるけど、大宮に配属になって、それが叶わず。いろんなかたちで放出してました。その1つがラジオドラマだったり、あとはZINE。そんとき写真も趣味だったので、撮った写真を1つの本にするみたいなのもそこで生まれました。たぶん神保町にそのまま来ちゃっていたら、なにか作ることもなかったと思うし。だから今思うのは高校の時の「こんなこと出てってやる」って思いとか、埼玉にいて自分の叶わなかったことを、なにくそ根性が一つものづくりに。というと何かかっこいいですけど。はけ口としてものを作るってことができるようになったのは、そのなにくそ根性があったかもしれないですね。わがままなのかもしれない。今置かれた状況が違うから、どうにかして叶えたいけど叶えられない、っていうのはモチベーションでしたよね。


__大宮の五年間で。


 長かったな。 短いようで長かった。 その時はもう終わりって後とかわかんないから。 ずっと大宮にいる絶望感みたいな。いいとこでしたよ。 職員の人がいい。営業所の方もすごい優しいからいいんですけど。 抜け出したい。


__異動の希望を出したりとかは。


 最初はしてなかったんですよ、それが。諦めちゃって。 してなくて、でもずっとちょっと想いとしてあって、ラジオドラマで自分の自信がちょっとついたっていうのもあって、初めて希望を出したんですよね、その時。そしたら叶って。 こっちに来れて。


__言ってみるもんですね。


 言ってみるもんですよね。諦めていた 気持ちもあって、転職活動もしてたんですよ。で、どうにでもなれみたいな気持ちではないですけど、最後は出してみるかって言って希望を出して。 会社のいろんな人にも相談してたって文脈もあって。


 情けみたいなものが、情けかわかんないですけど。ありがたいことに配属も神保町になって、それが二年前です。


__行けるってなってどんな感情でした?


 マジか。 逆に大丈夫かな? みたいな。 自分で言っておいて、ってのはありましたね。 環境の変化には今までの経験で慣れてはいたんですけど、この歳になると保守的になるじゃないですか。 変わることがちょっと怖くて。言っておいてあれなんですけど。まじか大丈夫かこれ? って気持ちはあったんですけど。 住めば都ですよ。 まだずっと来たかった街が目の前にあって。 有頂天でしたね。言ったら。


 来たら来たで。 仕事は全然違って。 働く人も同じ会社じゃねえじゃんみたいな思うぐらい変わったんですよね。そのギャップはしんどいところもあったんですけど。またサポートしてくれる方もいて。できてない部分の方が多いですけど、なんとか生きてます。なんとか両足で立ってる感じですよ。ずっとその時神保町には通っていて、ずっと目的なく通ってたんですけど、一つあるとしたら「定点観測」っていうのを個人的にやってて。


__定点観測。


 はい。 ツイ廃なんですけど。たまこって名前で神保町アカウントを持ってて、そこでずっと神保町の情報を流してました。それが一つの自己表現みたいな部分にもなってたんだなとは思うんですけど、一つのコンテンツとして、神保町のすずらん通りの入口から神保町を、そこを撮るっていうのを7年間ぐらいやってて。


 それはもう卒論の時期から始めたんですけど、街が変わっていくみたいなのを見ていて、スヰートポーヅって餃子屋がなくなったり、ジャズオリンパス、バイトしてるところも一回閉店したんですよ。 実は最近復活したんですけど、昨日も行ってきたんですけど。変わっていく街を留めたいっていうのがあって。 定点観測。 その場所からの、まあ行ったら撮る、行ったら撮るみたいな感じでやってたら、それが目的みたいになっちゃって。 街を留めるというのが、まあ無意識にずっとあって。


 スマホなんですけど、ずっと撮ってました。 同じ場所で撮るので。そこがたまたま三省堂書店神保町本店の横なんです。 そこも写ってて。 それが、まあ工事に入る前から撮ってたので今それ工事してますよね。


__してますね。


 そこが工事して建て替わるみたいな様子も、たまたま映せていて。変わるものと変わらないものみたいなのは、ずっと追っていきたいなとは、その写真もなんですけど思ってはいますね。


__撮り始めたきっかけというか。


 きっかけは、覚えてなくて。 自然にはじめたんですよ。その風景が大好きで、私。 そこの場所っていうのが、私がよそから通ってたんですよ。 JR御茶ノ水から降りてくる。 で、その場所がJR御茶ノ水から降りてきて、はじめて神保町を体感する場所なんですよ。 すずらん通りの神田駿河台側の入口なんですけど。


__あ、分かります。


 その風景が「神保町、ただいま!」みたいな場所でもあるから撮ってて毎回。 私にとっての神保町の入り口があそこだったので、撮り始めたというのが大きいですね。 今日も来たわパシャ、みたいなのを撮ってたら、「これつなげたら面白いんじゃないかな」って。Twitter、今のXの返信、返信みたいな感じで写真がつないでいって。 いつか本にしたいです。 パラパラ漫画とかにしたい。


__タイムラプスみたいになりそうですよね。


 そうですね、動画とかを作ってみたいな。データはあるので。そのまとめる技術と時間とがなくてやれてないですが。これからも続けていきたいなというのは。街で大きなことが出来るとは思ってないんですよ。 ただのよそ者の視点、ずっとよそ者だと思ってる私がいるので。 街を見守っていけたらいいなぁというふうに。


__見守るっていうのもなんか親、親みたいですね。


 偉そうですよね、なんか。偉そうですね。言い方が。


__偉そうとかではないんですけど。


 いちファンとして、きっと。 見続けたい対象ですね。私の思い入れは年々と深くなって行くんだろうなと。 どうしてもこの街の人です、みたいな感じには言えないんですけど、大声では。いちファンとしての関係性でいるんだろうなと思って。


__ファンですか?


 ファンです。なんか、本という文脈だと、あの「おさんぽ神保町」っていうフリーペーパー、ご存知ですか。


__前、一度パラパラって見させてもらいました。


 そうです。 それがすごい媒体で。この街に 20年間ずっと発行されてる、年に2回くらい。 それが石川さんという素敵な編集長さんがずっと紡がれてる冊子なんですけど。それの地図の更新を任せていただいて。 それ見てても、街がどんどん変わっていくのを体感するわけですよ。 調査してくれた方が情報を全部集約していただけるので。「加賀亭みなみ」みたいな名前を消したり、「学士会館(工事中)」とか書いたり。 あと多分これからも神保町の三角地帯っていうところあるんですけど、そこが大きく変わってくるんだろうなぁってのもあるし、そのパソコン上で街を変えるっていうことを4年か3年ぐらいやっていて、それでもすごい感じるようになって、町の変化っていうのを。 それでさらに留めたい。 まぁ変わってくものは仕方ないですけどね。 どうにか記憶に留めることは、街を好きなものとして、していきたいなというのが、大きくなってきました。その地図 やらせていただいているとか、定点観測を自然としているってとこから。初めて言葉にしたんですけど。


__そうですよね。新しいお店どんどんできたりとか。分かりやすいところだと三省堂とかずっと工事してますけど。どんどん風景変わりますもんね。


 そうなんです。好きだった場所。他にもっと思い出ある人はいるでしょうけど。でも、変わっていく。どうしようもないことですけどね。それを受け入れるためからかもしれないですね。


__折り合いつけるというか。


 そうですね。いい話にまとめようとしている自分がいますね。


__いや、いい話だからじゃないですか。


 いい話だからかな。 そうですね、ずっと富山の人であるっていう意識はあるから。 どうしてもよそ者という 気持ちは根底にずっとあって。でもそれは悪いこととは思ってなくて。


 だからこそ、気付けることもあるだろうし、良さとかが。もちろん、街の人は街をすごく愛していて、ほとんどですけど、よそから見て「ああここいいなぁ」というセンサーは持っていたいなと思います。 最近はちょっと近くに住んじゃったもんだから、よそ者の視点というのは、なくなってきちゃってるっていうのがちょっと焦ってるんですけど。


__よそ者の視点があった方がいいだろうと。


 いいだろう。 今までそれしか知らないから、戸惑ってるのかもしれないんですけど。 いいと思っていた、よそ者視点を。 だからこれからはちょっと変わっていくのかもしれないないですね、自分が。 富山はあるけど、それと付き合っていくんだろうなという気持ちです。 富山から出てきたというのが、今はまだ大きくて。常にずっと折り合いをつけている自分がいますね。どちらも大好きな街なんですけど。


__好きの種類がちょっと違いますよね。


 そうですね。 家族がいて安心して。慣れ親しんだ大好きな街と、個人的に好きになって、いまご縁がたくさん頂いている街みたいなところもあったりとか。 そうですね、好きの質が違うから。近くにあったらいいんですけど、隣り町とかで。 物理的な距離はどうしてもあるから。 ここはどう付き合っていけるんだろうなと思っています。 ステージでも違うと思うので。 例えば親がこれから介護になったらまた変わるでしょうし。 今がありがたいかもしれないです。「ただ好きでいるからいる」ってできるのが今だけかもしれないから。だから、この時間は大事にしたいなとは思います。

語り手  :たまこ聞き手  :鹿田玄也書き起こし:鹿田玄也



 
 
 

コメント


この投稿へのコメントは利用できなくなりました。詳細はサイト所有者にお問い合わせください。

ふらっと気まぐれメールマガジン
新着記事・活動の様子をメールでお届けしております、更新頻度は気まぐれです。
登録は専用のURL、もしくは下記フォームより受付中! 

専用URL:http://eepurl.com/iOYjcc

© 2024 ふらっと神保町 Wix.comにて作成

bottom of page